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世阿弥とマーク・トウェイン(おしまい)【前編】 ☆ あさもりのりひこ No.733

1962年に伊賀市の旧家から発見された上嶋家文書(江戸時代末期の写本)には、伊賀・服部氏族の上嶋元成の三男が観阿弥で、その母は楠木正成の姉妹であるという系譜が含まれていた。この記載に従えば、観阿弥は正成の甥ということになる。

 

 

2019年7月12日の内田樹さんの論考「世阿弥とマーク・トウェイン(おしまい)」【前編】をご紹介する。

どおぞ。

 

 

世阿弥とマーク・トウェインについて「明日続きを書きます」と予告してから、5カ月も経ってしまった。書くつもりはあったのだが、他のことに気を取られて世阿弥まで手が回らなかったのである。さいわい、本日、湊川神社神能殿で映画『世阿弥』の上映会があり、私は25分間の前説を担当することになっている。どうせメモを作らなければいけないのだから、それをブログ記事として公開しておけばよい。

 世阿弥はどうして「日本のマーク・トウェイン」なのか?という話をしているところだった。

 マーク・トウェインが「アメリカの国民的分断を和解に導き、死者たちを鎮魂する物語」の鼻祖であるということはもうお分かり頂けたと思う。フィッツジェラルドも、ヘミングウェイも、西部劇映画も、エルヴィスのロックンロールも、国民を分断している「壁」を打ち砕いた功績によって「オールアメリカン」なものとなった・・・というお話を先にした。

 日本でその役割を果たしたのは何か。

 古くは『古事記』がそうだ。日本列島に渡来してきた人たちと先住民たちの間の対立と和解のドラマは「天つ神・国つ神」の神統記や「国譲り」神話によって語られている。もちろん『平家物語』がそうだ。そして、世阿弥作の能がそうである。

 どうして世阿弥が国民的分断の和解の物語を書かねばならなかったのか。それについては観世家の系譜について少し触れておく必要がある。

 

『世子六十以後申楽談儀』には、観阿弥が伊賀の服部氏一族の末裔だという記述がある。

 1962年に伊賀市の旧家から発見された上嶋家文書(江戸時代末期の写本)には、伊賀・服部氏族の上嶋元成の三男が観阿弥で、その母は楠木正成の姉妹であるという系譜が含まれていた。この記載に従えば、観阿弥は正成の甥ということになる。後に発見された播州の永富家文書を傍証にこの記載を真とする意見がある。

 しかし、文書の信憑性を巡っては実は異論がある。梅原猛は『うつぼ舟II』で観阿弥と正成の関係を主張したが、能楽研究者の表章はこれを「空論」と退け、伊賀観世系譜が後代作成の「偽文書」と論じた。

 専門家ではないので、楠木正成と観阿弥が実際に伯父甥の関係であったのかどうかについて私には学術的な論拠を挙げて判定することができない。だが、いずれにせよ伊賀の服部家と観世家の間に何らかのかかわりがあったことは間違いない。

 

 伊賀の服部家と言えば、ご案内のように、服部半蔵を出した伊賀忍者の家系である。

 初代服部半蔵は伊賀忍者として室町十二代将軍足利義晴に仕えたが、のち主を替えて三河の松平清康に仕えた。清康は徳川家康の祖父である。だが、徳川家に仕えて伊賀同心を率いたのは三代服部半蔵正就までで、四代正重は桑名藩で二千石の扶持を得て、代々家老職を幕末まで務めた。

 幕末では堂々たる侍になっていたが、室町時代末期までは数十人の伊賀衆を引き連れて、主君を替えて、そのつど特殊な任務を果たした一種の「傭兵集団」だったのである。

 服部氏はいわゆる「悪党」に分類される。

 歴史的術語としての「悪党」が意味するのは、発生的には、荘園体制の崩壊期に、本所(名目上の荘園領主である京都の権門勢家)の支配権を脅かした在地領主(荘官)のことである。のちに「悪党」概念は拡大されて、海民、山賊、蝦夷、さらには遊行の芸能民や勧進聖や牛飼童たちまでも含むことになった。つまり、荘園公領制にうまく帰属できない人たちは総じて「悪党」と呼ばれることになったのである。

 外部性を記号的に表象するために彼らは「異形」をまとった。

「異形」の歴史的意味については網野善彦『異形の王権』に詳しい。あるいは「異形な棒ー鉾を担ぎ婆裟羅風の派手な衣装をつけ、高下駄をはき」(67頁)、あるいは「鹿杖(かせづえ)」をつき、あるいは笠をかぶり、あるいは成人しても童名を名乗り、童形を続けた(京童や八瀬童子や牛飼たちがそうである)。それは彼らが公秩序の外部にあり、ある種の呪術的な力を具えた「聖なる存在」だったことの徴であると網野は論じている。

 この「異形の人」たちが跳梁跋扈したのがまさに室町末期、後醍醐天皇の建武の新政の時であった。建武の新政のさなかに発令された法令のうちに内裏に「異形の輩」が出没していたことが記されている。そこには覆面をつけ、笠をかぶり、高下駄を履くなどの風体のものたちが「塵を捨て置き不浄を現すこと」を制止すべきとの条がある。天皇の居所にゴミを捨て、糞便を散らかす者たちが出没していたことが後醍醐の新政の異様な性格を表わしている。この時期政権中枢には「聖俗いずれとも判断のつかない者ども」が蝟集していた。その理由について網野はこう書いている。

 

「建武新政とともに、突如として『婆裟羅』の風が噴出する如く世の表に現れわれ、広く世間に風靡していった理由はまさにここにある。それは建武政府の本質と深く関わる現象であった。後醍醐は文観を通じて『異形異類』といわれた『悪党』『職人』的武士から非人までをその軍事力として動員し、内裏にまでこの人々が出入する事態を現出させることによって、この風潮を都にひろげ、それまでの服制の秩序を大混乱に陥れた。」(『異形の王権』、217頁)