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内田樹さんの「Voiceについて(前編)」 ☆ あさもりのりひこ No.747

ボイスというのは、単なる「声」ではないんです。自分の中の、深いところに入り込んで行って、そこで沸き立っているマグマのようなものにパイプを差し入れて、そこから未定型の、生の言葉を汲み出すための「回路」のことです。

 

 

2019年9月2日の内田樹さんの論考「Voiceについて(前編)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

2019年の5月に国語科の教員たちを対象に「国語について」の講演を行った。いつもの話なのだけれど、「ボイス」に関してわりとまとまった話をしたので、その部分だけを抜き出して再録する。

 

査定をしないで、能力を開花させるためには、何をなすべきか。ここからようやく国語教育の話になります。

 子供たちが開花させることになる国語の能力とは何か。僕はそれを「自分のボイス(voice)を発見すること」だと思います。子供たち一人一人が「自分のボイス」を発見し、「自分のボイス」を獲得する。極言すれば、国語教育の目的は、その一つに尽きると思います。小学校から大学までかけて、「私は自分のボイスを発見した」と思えたら、その人については、国語教育はみごとな成功を収めたと言ってよいと思います。

 最初に、「私のボイス」という言葉を知ったのは映画からです。『クローサー』という映画がありました。映画自体はどうということのない凡作なのですが、その中にこの台詞が出て来た。一人の男(ジュード・ロウ)が町中で若い娘(ナタリー・ポートマン)を拾ってタクシーに乗るシーンがあります。タクシーの中で、ナタリー・ポートマンが「あなた仕事、何してるの?」と聞くと、「新聞記者だ」と答える。そして、「でも、僕はまだ自分のボイスを発見していないんだ」と続ける。その時に「ああ、適切な表現があるな」と思いました。記者にも「自分のボイスをみつけた者」と「自分のボイスをまだみつけていない者」がいて、自分のボイスを見つけない限り、決してほんものの記者にはなれない。

 

 みなさんも多分、「自分のボイス」に出会った経験があると思うのです。例えば、子供のときに、小学校か中学校か、すごく仲のいい友だちが出来て、親友になった。あるいは、もう少し大人になって、はじめて恋人ができた。そういう初めて親友ができたときと、初めて恋人ができたとき、時間を忘れて話しますよね。駅のベンチとか土手の上とかで、それこそエンドレスにずっと二人で話し続ける。自分の話をするし、相手も自分の話をする。そのときに話すことはしばしば「この話、生まれて初めて人にするんだけれど・・・」という前置きで始まりますよね。

 これまでに友だちや家族に向かって話したことのある「いつもの話」をまた繰り返すわけじゃないんです。親友や恋人にする話はそういう「手垢のついた話」じゃない。全く新しい、できたての、それまで、一度も脳に浮かんだことがなかったような過去の記憶がふっと生々しく蘇ってくる。あるいは、同じ出来事についてなんだけれど、まったく違う視点から、違う解釈をする。「これまでずっとあの出来事は『こういう意味』だと思っていたけれど、それとは違う、もっと深い意味があったんだ」いうような話を始める。

 そして、そういう話はだいたいオチがないんです。勢い込んで話し始めるんだけれど、途中でぷつんと途絶してしまう。でも、それでも平気なんです。そういう頭も尻尾もないし、オチもないし、教訓もないような話が次々と湧き出て来る相手のことを親友とか恋人とか呼ぶわけですから。そういう話をしているときに、人は「自分のボイス」に指先がかかってきたことを知る。

 子供たちを見て、「まだ自分のボイスを発見していないな」ということは聞いていると分かります。独特のボキャブラリーや、独特の話し方をしていても、「前にして、受けた話」を変奏して繰り返しているなら、その子はまだボイスは持っていない。オチがあったり、教訓があったり、笑いどころのツボが決まっていたりするような話をしている人間はまだ自分のボイスを持っていない。

 ボイスというのは、単なる「声」ではないんです。自分の中の、深いところに入り込んで行って、そこで沸き立っているマグマのようなものにパイプを差し入れて、そこから未定型の、生の言葉を汲み出すための「回路」のことです。

 その回路はいろいろなかたちをとります。語彙であったり、音調であったり、リズムであったり、速度であったり、文字列のグラフィックな印象であったり・・・いろいろなかたちをとりますけれども、とにかく自分の中の言語活動を烈しくドライブしてくれる「きっかけ」です。

 村上春樹さんは自分の文体のことを「好きだ」とどこかで言ってました。自分の文体は性能のよいヴィークルで、自分を遠くに運んでくれるから、というのがその理由でした。ここで村上さんが「文体」と言っているのは、僕の言う「ボイス」と同じものだと思います。