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内田樹さんの「サンデー毎日「嫌韓言説について」(後編)」 ☆ あさもりのりひこ No.761

「フランスにおける反ユダヤ主義」は私の研究テーマの一つだったが、研究を通じて骨身にしみた教訓は「発言の責任を取る人間がどこにも存在しない妄想やデマでも、強い現実変成力を持つことができる」という歴史的事実であった。だから、私は空語や妄想を軽んじない。

 

 

2019年9月24日の内田樹さんの論考「サンデー毎日「嫌韓言説について」(後編)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

「書くなら覚悟をもって書け」という私の考えに同意してくれる人は残念ながら出版界には少ないと思う。おおかたの出版人は鼻先で笑うことだろう。

「何を青臭いことを言ってるんですか。そういう記事を読みたいという読者がいるから、記事を書いてるだけですよ。ただの需要と供給の話です。出版人の矜持だ覚悟だって、内田さん、なんか出版に幻想持ってませんか?」と、たぶんそう言われるだろう。

 数年前にある週刊誌が党派的にかなり偏った政治記事を掲げたことがあった。その週刊誌からインタビューを申し込まれたので、「あんな記事を書く週刊誌とは仕事をしない」と断ったら、苦笑いされた。「あんなこと、われわれが本気で書いてると思ってるんですか? ああいうことを書くと売れるから、『心にもないこと』を書いているんです」と「大人の事情」を説明してくれた。それを聴いて、私はさらに怒りが募った。

 これらの記事は、「これは私の言いたいことです」と固有名において誓言する書き手が存在しない文章である。誰もその「文責」を引き受ける人がいない言葉が印刷され、何十万もの読者がそれを読む。そして、「そういう考え方」が広く流通する。

「フランスにおける反ユダヤ主義」は私の研究テーマの一つだったが、研究を通じて骨身にしみた教訓は「発言の責任を取る人間がどこにも存在しない妄想やデマでも、強い現実変成力を持つことができる」という歴史的事実であった。だから、私は空語や妄想を軽んじない。

 けれども、私に「裏の事情」を話してくれたフレンドリーな編集者は自分たちが流布している「空語」の現実的な影響力については特に何も考えていないようであった。適当に書き飛ばした「空語」を読んで、それを現実だと「誤解」するのは読解力の足りない読者の責任であって、書いた側には責任がないと思っていたらしい。

 厄介な話だが、このような考え方にも実は一定の理論的根拠はある。「あらゆるテクストは多様な解釈に開かれており、テクストを一意的に解釈する権利は誰にも(書き手自身にも)ない」というのはロラン・バルト以来のテクスト理論の中核的なテーゼだったからである。

 今回の『週刊ポスト』も、謝罪していたのは、「誤解を広め」かねないことについてであり、「間違ったことを書いた」ことについてではない。「テクストの最終的な意味を確定するのは読者たちであり、筆者ではない」というポストモダンの尖ったテクスト理論はここでは書き手の責任を空洞化するために功利的に活用されていたのである。学知というのは、こういうふうに劣化するものだということを私は知った。

 

 どれほど「ジャンク」な商品でも、それを「欲しい」という消費者がいる限り、その流通を妨害してはならないというのは市場経済の基本ルールの一つである。アメリカには「学位工場(degree mill)」というものがある。貸しビルのオフィスに電話とパソコンがあるだけの、実体のない「大学」だが、金を払えば、学位記を発行してくれる。学問的には無価値な学位だが、それでも「欲しい」という人がいる。だから商売になる。アメリカにはこれを禁じる法律がない。売り手も買い手もそれが「ジャンクな商品」だということをわきまえた上で売り買いしているのである。「大人の商売」である。だから、市場原理に従えば、空語や妄想を読みたいという人がいる限り、妄想や空語を売ることも適法だということになる。

 私はこういう「原理主義的」な考え方を好まない。たとえ理屈ではそうでも、いくらなんでも非常識だと思う。もちろん、「それは非常識だ」と私が言っても、「お前の言う『常識』とはいつ公認されて、どの地域において『常識』なんだ? どれだけの一般性があるんだ?」と切り立てられると絶句する他ない。しかし、私はここで絶句するということが「常識の手柄」だと思っている。常識に基づいて革命を起こしたり、テロをしたり、人を収容所に監禁したりすることはできない。「そんなの非常識」だからである。

 常識は強制力を持たない、弱い知見である。控えめな抑止効果はあるが、それ以上の力を持たない。けれども、そういう言葉がいまのメディアには一番足りないのではないか。

 

 こういう問題が起きると「表現の自由を侵すな」という原理主義的な反論を語る人がいる(今回もぞろぞろ出て来た)。だが、「ヘイトも、差別も、犯罪教唆も、言論の自由」だというようなことを言う方々は別に「表現の自由」が譲れない基本的人権だと思ってそう言っているわけではない。そのことは肝に銘じておいた方がいい。

「表現の自由」という言葉は一つだけれど、それを「手段」として功利的に使う人たちと「目的」として掲げている人たちでは、同じ言葉でも奥行きや広がりが違う。

「表現の自由」を口にする人たちが「表現の自由があらゆる領域で保障されるような社会を構築するため」にその原理を掲げるなら、私はそれを支持する。いまここにおける「限定的な表現の自由」の行使が、未来の「より包括的な表現の自由」の実現をめざすものであるなら、私はそれを支持する。

 だが、自分たちの政治的信念を宣布する上で便宜的に「表現の自由」論を口にする人については、彼らに「表現の自由」を認めることを私は留保する。もし彼らがその言論を通じて実現をめざしているのが、異物を排除し、多様性を認めず、単一のイデオロギーで統制された「純血主義」的社会であるなら、私は彼らが「表現の自由」を口にするのはそもそも「ことの筋目が通らない」と思うからである。

 もちろん私は一介の私人であるから、法律や暴力を以て彼らを黙らせることはできない。私にできるのは「この人たちの言うことに耳を貸してはいけない」とぼそぼそ言うだけである。

 

 いま日本のメディアには非常識な言説が瀰漫している。だが、これを止めさせる合法的な根拠はいまのところない。たとえ法律を作っても、その網の目をくぐりぬけて、非常識な言説はこれからも流布し続けるだろう。私たちにできるのは「それはいくらなんでも非常識ではないか」とか「それではことの筋目が通るまい」というような生活者の常識によって空論や妄想の暴走を抑止することだけである。そのような常識が通じる範囲を少しずつ押し広げることだけである。