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日本が民主主義的な政体である限り、マルクス主義者たちとの対話は可能であり、双方が情理を尽くして話し合えば、合意形成は可能であるという希望を暗黙のうちに語っている。
2019年10月17日の内田樹さんの論考「「民主主義」解説(その2)」をご紹介する。
どおぞ。
これは第二次世界大戦が連合国の勝利に終わった直後に、連合軍の占領下にある敗戦国で出版された教科書である。だから、本書がイギリス、フランスなかんずくアメリカに現存している民主主義的な統治システムが人類の進歩のみごとな達成であるという評価を不可疑の前提とするのは当然のことである。大日本帝国の軍国主義とドイツのナチズムとイタリアのファシズムとは許し難い「独裁主義」として繰り返し、きびしく批判される。そればかりではなく、東西冷戦の前夜の緊張感が背景にある以上、枢軸国を切り捨てた返す刀で、スターリンのソ連におけるプロレタリア独裁もまた民主主義の本義に反する政体としてきびしく懐疑的なまなざしを向けられる。政体の良否についての判断はほとんど先験的に明らかである。
しかし、それにもかかわらず、ここには検閲者であるGHQを慮った、強者に理ありとするタイプの事大主義的な文言は見ることができない。私はこの抑制に驚かされる。この節度ある文体を保つために、どれほどの知的緊張を執筆者たちは強いられたのかだろうか。
もちろん全篇を通じて、アメリカの統治システムは高く評価されている。けれども、その評価は客観的である。たしかな歴史的な裏付けと、執筆者自身の信念に基づいて、その評価は下されている。アメリカ独立の経緯から説き起こし、その内部矛盾や金権政治の弊を指摘し、大統領・議会・最高裁判所が拮抗するアメリカの制度の「大きな妙味」を記した章の執筆者は、はっきりとウッドロー・ウィルソンとフランクリン・ルーズベルトの政治理念への支持を明らかにしている。ルーズベルトのニューディール政策の白眉であったTVAの事業の卓越性をたたえることにかなりの紙数を割いており(427頁)、資本主義の暴走を政策的介入によって抑止し、「完全雇傭」(210頁)を実現しなければならないというケインズ主義への共感も隠されていない。また女性の参政権や社会進出について書かれた章では、独立宣言の起草者のひとりジョン・アダムズの妻が女性の権利拡大を夫に訴えた手紙を採録し、あまり知られていないアメリカにおける女性の権利拡大の歴史についても深い共感をもって記述している。(360頁)
つまり、この「教科書」の執筆者たちは「アメリカはどうして最強国になったのか、アメリカから学びうるものがあるとすれば何か」についてはかなりはっきりとした個人的な信念に基づいて執筆しているということである。おそらく彼らはGHQの検閲官たちよりも自分たちの方がアメリカの歴史や統治システムについて精通しているという知的な自負に支えられていた。そのようなすぐれた執筆者を集めることができたという点ひとつをとっても、この「教科書」は異質なものと言える。
共産主義についての評価もきわめて精密で周到な筆致でなされている。先ほど触れたように、ソ連のスターリン主義(という言葉はまだなかったが)と国際共産主義運動については何か所かで手厳しい批判が記されているけれども、これもあくまでソ連の統治システムが十分に民主主義的でないという点について、「手続きに問題あり」として批判されているのであって、共産主義は原理的に間違っているとか、私有財産の廃絶など狂人の妄説であるというような一刀両断的断罪ではない。
だから、この本の共産主義にかかわる部分が検閲に供された過程で、GHQ内部でこの採否をめぐって対立があったとしても私は怪しまない。これが(多少の改変はあったかも知れないけれど)このかたちで通ったのは、GHQ内部の「ニューディーラーたち」がこの記述に一定の共感を抱いたからだろう。
本書にはこうある。「各国の共産党にしても、もしもそれが議会政治の紀律と秩序を重んじ、ひとたび議会での多数を獲得すればその経綸を行い、少数党となれば、多数に従うという態度ですすもうとしているのであるならば、それは、レーニンなどによってひよりみ主義として痛烈に非難されたマルクス主義陣営中での穏健派の立場に帰っているのである。」(280頁)
つまり、この教科書はマルクス主義政党が民主的な手続きで議会内の多数派を制したならば「その経綸を行う」ことを当然の権利として認めているのである。
この政治的寛容は、この教科書を読む中学生や高校生のうちに、マルクスをすでに読んで共感したものや、いずれ読んでマルクス主義者になるものが必ず一定数いることを予測しているがゆえに採用されたのだと私は思う。それゆえ、なぜマルクスの社会理論が19世紀のヨーロッパに生まれたのか、その歴史的必然性を明らかにした上で、これは日本がとるべき途ではないと諄々と「諭す」という文体を執筆者は採用している。そして、日本が民主主義的な政体である限り、マルクス主義者たちとの対話は可能であり、双方が情理を尽くして話し合えば、合意形成は可能であるという希望を暗黙のうちに語っている。これは読者の知性を信頼する書き手にしか採用できない書き方である。