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内田樹さんの「海民と天皇」(その3) ☆ あさもりのりひこ No.775

『平家物語』における源平の戦いが図像的には「沖には平家の船、陸には源氏の騎馬武者」という対比的な図像になっているのは、それが海民と陸の民のコスモロジカルな対決だったからである。

 

 

2019年10月24日の内田樹さんの論考「海民と天皇」(その3)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 平安貴族政治が終わる頃に二つの巨大な政治勢力が地方から中央へ進出した。

 一方は平家である。西国の沿海部に所領を展開し、海民たちをまとめ、清盛の父忠盛の代に伊勢に拠って、軍功を上げて、宮中に勢力を広げた。平清盛は保元平治の乱を経て、独裁的権力者となり、貴族たちの反対を押し切って福原遷都を挙行し、大輪田泊を拠点に東シナ海全域に広がる一大海洋王国を構想した。朝廷内に理解者の少なかった(たぶんほとんどいなかった)この海民的構想を実現するために清盛はきびしく異論を封じた。そのことに不満を抱いた人々が平家追討の主力を「もう一つの野生エネルギー制御者」である源氏に求めたのは選択としては合理的である。

 源氏は東国内陸に拠点を展開し、馬を牧し、騎乗と騎射の妙技によって知られた職能民である。これから日本が海洋王国となり、航海術に優れたものたちに優先的に政治的・経済的資源が分配されるという未来は源氏にとっては受け入れがたいものであった。『平家物語』における源平の戦いが図像的には「沖には平家の船、陸には源氏の騎馬武者」という対比的な図像になっているのは、それが海民と陸の民のコスモロジカルな対決だったからである。

 

 源氏が野生獣のエネルギー制御に長じていたことは、『平家物語』が詳しく伝えている。鵯越では馬で崖を駆け下り、屋島の戦いでは馬で浅瀬を渡り、倶利伽羅峠では数百頭の牛を放って平家を潰走させた。源氏の武者たちはもっぱら騎乗と騎射の技術によって平家を圧倒しようとした。その技術によってのみ平家と戦おうとしたという偏りに源平合戦の隠された構造が露出する。

 源平合戦の中のよく知られたエピソードに「逆櫓」がある。平家追討の緒戦に当たる海戦で梶原景時は「逆櫓」という船の舳と艫のどちらにも櫓がついた船を用いることを提案した。そのような機動性の高い軍船を使って平家を攻めることの利を景時は説いた。戦術的にはごく合理的な提案である。だが、これを義経は退けた。「もとよりにげまうけしてはなんのよかるべきぞ。まづ門出のあしさよ(はじめから逃げる準備をするのはよろしからず。縁起が悪い)」。やりたければ、お前は逆櫓でもなんでも好きなだけつければよろしい。私はふつうの櫓で行くと義経は言い放って、万座の前で景時の面目を潰した。

 なぜ義経は操船の利を拒んだのか。それは、義経がこの戦が単なる政治的ヘゲモニーの争奪戦ではなく、野生のエネルギーを制御する技術を有する職能民の間の戦いであり、それゆえ相手の技術を借りて勝ったのでは意味がないと考えていたからである。義経はコスモロジカルなスケールで源平合戦をとらえており、景時は目先の局地戦の勝利にこだわり、そもそもこれが何のための戦いであるのかを忘れていた。そして、飼部としての職能の本義を忘れたことを義経に指摘されて、義経を殺さなければ癒やされないほどの屈辱を覚えたのである。

 

 壇ノ浦で最終的に源氏は勝利を収めるわけだが、よく見るとわかるが、この最終的勝利をもたらしたのは、渡辺水軍、河野水軍、熊野水軍など平家に従わなかった海民たちの操船技術と、平家の海軍戦力の中心にいた阿波水軍の裏切りであった。最終的に源平合戦の帰趨を決したのは艦船数と操船技術の巧拙だったのである。この最終局面には飼部の騎乗騎射の技術はもはやかかわっていない。『平家物語』の壇ノ浦の合戦が平家の「死に方」についての記述に満たされ、源氏の「勝ち方」について叙することがきわめて少ないのはおそらくそのせいである。だから、源氏はこの勝利を心から祝う気持ちにはなれなかったのではないかと私は思う。

 

■陸獣と海獣

 

 源平合戦は海部・飼部という二つの職能民がそれぞれの自然エネルギー制御技術の優劣を競った戦いであったというのが私の第一の仮説である。これは別の言い方で言うと、平安時代末に、日本人は「陸国」を志向するのか「海国」を志向するのか、その岐路に立ったということである。その時、列島住民はその二つの道のどちらを取るべきか逡巡した。これは世界史的にはかなり例外的なことのように思われる。というのは、カール・シュミットによれば、本来「大地の民」と「海洋の民」は陸棲の動物と魚類ほどに別の生き物だからである。

 

「海洋民族は一度も大地に足を踏まえたことがなく、大陸については、それが彼らの純粋な海洋生活の限界であるという以外にはなにも知ろうとしなかった。(...)かれらの全生活、その観念世界および言語は海に関連していた。かれらには、大地から獲得されたわれわれの空間と時間についての観念は無縁であり、理解しえぬものであった。それは、逆にわれわれ陸の人間にとって、あの純粋な海の人間の世界がほとんど理解することのできない別世界であるのとまったく同じなのである。」(カール・シュミット、『陸と海と 世界史的一考察』、生松敬三・前野光弘訳、慈学社、2006年、11-12頁)

 

 シュミットはアテナイから説き起こして、ヴェネチア、オランダ、イギリスといった海洋国家がいかにして大陸国家を圧倒して、世界史的なパワーとなり得たのかを記述した。そして、19世紀のイギリスとロシアの緊張関係がしばしば「鯨と熊」の戦いで図像化されたことを引いた後に、「世界史は巨大な鯨、リヴァイアサンと、同じく強大な陸の野獣で、雄牛あるいは象として考えられたビヒモスとの間の戦いである。」(同書、18頁)と書いている。

 世界史は陸の国と海の国、陸獣ビヒモスと海獣リヴァイアサンの間の戦いの歴史であるというのがシュミットの説である。

「陸と海」であれ、「定住民と遊牧民」であれ、「アーリア人とセム人」であれ、「ブルジョワとプロレタリア」であれ、何かと何かの根本的な対立が世界史を駆動しているという話型は、少なくともヨーロッパでは、それなしでは思考することができないほどに根源的な世界理解の枠組みである。シュミットの陸と海もその変奏の一つである。

 

 いくつかの二項対立のうちでとりわけシュミットの「陸と海」という対立図式に私が惹かれるのは、日本の場合は、同一集団の内部にその二つの性格が拮抗しているように見えるからである。列島住民たちは、自分たちが陸の国として立つべきか海の国として立つべきか、それを確定しかねていた。だから、ある時は海洋国家を志向し、あるときは陸の国に閉じこもろうとする。日本は文字通り「海のものとも山のものともつかぬ」両棲類性の国家なのである。これが私の第二の仮説である。