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内田樹さんの「海民と天皇」(その5) ☆ あさもりのりひこ No.778

古代道路の荒廃から、私たちは国威発揚や権力誇示といった観念的な目的のために人間という「ものさし」を無視して行われた巨大事業の末路を知ることができる。

 

 

2019年10月24日の内田樹さんの論考「海民と天皇」(その5)をご紹介する。

どおぞ。

 

  

■ 無縁の場・無縁の人

 

 日本列島住民の海民性ということについて、ここまで書いてきた。海民と天皇の結びつきについては、まだ言葉が足りない。ここで「無縁」という補助線を引くことによって海民と天皇の間の繋がりを際立たせてみたいと思う。

 古代中世以来、列島の各地に、「無縁の場」が存在した。無縁とは文字通り「縁が切れる」ことである。ここに駆け込めば、世俗の有縁(夫婦関係、主従関係、貸借関係、さまざま賦課など)を断ち切って、人は自由になることができた。それは飢える自由、行倒れになる自由と背中合わせではあったが、それでも自由であることに変わりはない。無縁の場とされたのは寺社、山林、市庭、道路、宿、とりわけ河原であった。

 

「『宿河原』とよく言われるように、『宿』はしばしば河原の近辺に所在している。これは、交通とも無関係ではなく、さきにふれた淀の河原のように、そこに市の立つ場合もあったのであるが、なにより、河原が死体・髑髏の集積地であり、葬地だったからにほかならない。(...)河原は、まさしく賽の河原であり、『墓所』、葬送の地として、無縁非人と不可分の『無縁』の地であった。それ故にここは、古くは濫僧、屠者、中世に入ってからは斃牛の処置をする『河原人』『餌取』『穢多童子』、さらには『ぼろぼろ』など、『無縁』の人々の活動する舞台となったのである。」(網野善彦、『無縁・公界・楽』、平凡社、1978年、30-31頁)同書、154-155頁)

 

 無縁の人である聖上人たち宗教者の活躍が際立ったのもそこである。「橋を架け、道路をひらき、船津をつくり、泊を修造」するという仕事は行基・空也以来、「必ずといってよいほど、聖の勧進によって行われた。」(同書、166頁)「『無縁』の勧進上人が修造する築造物は、やはり『無縁』の場でなくてはならなかった」からである(同書、168頁)。

 

「無縁」者には次のよう職種の人たちが含まれる。

 

「海民・山民、鍛冶・番匠・鋳物師等の各種手工業者、楽人・舞人から獅子舞・猿楽・遊女・白拍子にいたる狭義の芸能民、陰陽師・医師・歌人・能書・算道などの知識人、武士・随身などの武人、博奕打・囲碁打などの勝負師、巫女・勧進聖・説経師などの宗教人」(同書、187頁)。

 

彼らはそれぞれの職能を生業として広範囲を移動したわけだが、移動の自由のためには関渡津泊・山野河海・市・宿の自由通行の保証を得ていなければならないわけだが、彼らにその保証を与えていたのは天皇であった。

 

「こうした『無縁』の場に対する支配権は、平安・鎌倉期には、天皇の手中に掌握される形をとっていた。多くの『職人』が供御人となっていった理由はそこにある。」(同書、188頁)

 

海民たちには、古代から天皇・朝廷に海水産物を贄(にえ)として貢ぐ慣習があった。彼らは「無主」の地である山野河海を生業の場とする。中世にそれらの土地は天皇が直轄する「御厨」なった。その住民たちは天皇の直轄民となり、「供御人」と呼ばれるようになった。海民と天皇はここで「無縁」という空間を媒介として結びつくのである。

 

 歴代天皇のうちで無縁の者たちとの繋がりが最も際立っていたのは後醍醐天皇である。後醍醐天皇は「無縁の者」たちをそのクーデタのために動員した。その結果、建武期の内裏には、天皇の直接支配を受けるかたちで、覆面をし、笠をかぶった聖俗いずれともつかぬ「異形の輩」「悪党」たちが闊歩していた。

 だが、無縁の人とのかかわりが深かったにもかかわらず、後醍醐帝と海民の結びつきについては、熊野海賊が軍事的支援をしたという以外には特筆すべき事績が見当たらない。これは後醍醐が日本歴史上例外的な「中央集権的な天皇」であったことと無関係ではないだろう。

 すでに見たように、中央政府のハードパワーが強く、海民たちがその完全な支配下にあった時期、例えば律令期や得宗独裁期や建武の天皇親政期、そして明治以後は、海民は政府に中枢的に統御されていた。活動が「官許」されていたわけであるから、海民たちはそれなりの存在感を示していた。だが、それは社会そのものの性格が海民的であることとは違う。日本社会の海民性が際立つのは、中央政府の支配力が衰え、中枢的な統制が弱まった時である。

 

■ 道と海民

 

 政治的支配の強さと海民の活動がゼロサムの関係にあるという仮説の一つの傍証として五畿七道という古代の交通制度を見ておきたい。

 律令時代に五畿七道という行政制度が整備された。七道(山陽道・山陰道・西海道・東海道・東山道・北陸道・南海道)の「道」というのは現在の北海道と同じく行政単位の名だが、古代では、それが道路に沿って展開していた。全長6300キロに及ぶこの道路は幅が6メートルから30メートルあり、「都と地方を結ぶ全国的な道路網であり、その路線計画にあたっては、直進性が強く志向されている」と近江俊秀は書いている。(『古代道路の謎』、祥伝社新書、2013年、25頁)

 今、数字を書き連ねてみたが、6300キロというのは現在の高速道路網の総延長(北海道を除く)に匹敵する。私たちの家の前の一般道路は一車線せいぜい3メートルである。30メートル幅の道路というのがどれほどの規模のものかはそこから知れるだろう。

 江戸時代に幕府が造営した五街道(東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中)は幅3・6メートルで、地形にあわせて屈曲する道路であった。今の生活道路と変わらない。

 しかし、古代に造営された七道は現在の高速道路と同じく、地形とも地域住民の生活ともかかわりなく、ただ都から地方の要衝までをまっすぐ定規で線を引いて作られたのである。そこが湿地であろうと掘削しないと通せないところであろうと地盤が弱く保全が困難な地形であろうと、駅路は直線的に造られた。 

 都から地方への軍略物資の輸送、地方から都への貢納品の輸送というのが、交通網としての実用目的だったと推察されるが、それでも理解しがたい点は残る。何よりもまず道路が直線であれば人は早く移動できるというものではないからだ。生身の人間にとって歩きたい道というのは直線とは限らない。川沿いや木陰や谷合や峠の、歩いて気分がよく、休憩したり、飲食したり、一夜を明かすのに適した場所を縫って生活道路は形成される。土地と人間の「対話」をベースにして作れば道路は必ず屈曲する。だが、古代道路はそうではない。ということは、古代道路は机上の計画だけに基づいて設計されたということであり、あえて言えば人間的な、生理的な基準を無視して設計されたということである。

 古代道路を最も頻繁に用いたのは納税のために都に上る庶民だったが、彼らはいつ故郷を発ち、都まで一日何キロ歩くかまでが法で定められていた。納税を終えて故郷に帰る人々が帰路、餓死する事例が多発したと『続日本紀』には記載がある。(同書、97頁)七道はそれほどに非人間的な道路だったということである。それゆえ、近江は「古代駅路には『国家権力を人々に見せつけるための象徴』という意味があったことがわかるのである」(同書、27-28頁)としている。

 ここには言及されていないが、もう一つ腑に落ちないのは、七道には水上交通が含まれていないことである。大量の物資を短時間に運ぶという点でいえば、すでに十分な発達を遂げていた河川湖沼の水上交通を無視するというのは政策として不合理である。でも、七道が国権の誇示のための装置であったとするならばそれも理解できる。律令国家の支配者たちは水上交通を司っていた海民たちに向かって「お前たち抜きでも国家のロジスティックスは成り立つ」ということを告知し、かつ軍事物資や貢納品を決して海民の手に委ねないことによって、国家は海民たちを決して信用しないという強い意志を伝えたと考えれば、それも理解できる。

 

 古代道路のもう一つの特徴は、これほど巨大なプロジェクトの成果であるにもかかわらず、短期間で廃用されたことである。国が総力をあげて造営した交通網が100年ほど後には草生し、崩れ、人気のない無住の地になった。古代道路の遺構は今でもしばしば田畑や山林から発掘されるが、それはそれ以後それを道路として使った人間がいなかったということを意味している。

 そして、「それまでの計画的な大道が荒廃しはじめる過程」が始まると同時に、大量の物資を輸送するルートとしての海、川の交通路の役割が再び表に現われ」るのである。(網野、前掲書、135頁)

 

 古代道路の荒廃から、私たちは国威発揚や権力誇示といった観念的な目的のために人間という「ものさし」を無視して行われた巨大事業の末路を知ることができる。そして、そのようなタイプの政治と海民文化がゼロサムの関係にあることも知れるのである。