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内田樹さんの「加藤典洋さんを悼む」 ☆ あさもりのりひこ No.790

イデオロギー的に「すっきりしている」ことはその組織や運動が持ちうる現実変成力と相関しない。

 

 

2019年12月31日の内田樹さんの論考「加藤典洋さんを悼む」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 加藤典洋さんが亡くなったのは今年の5月16日である。その後に「小説トリッパー」に追悼文を寄せた。ブログに上げたつもりでいたが、上がっていなかった。大晦日に今年の10大ニュースを書いているときに橋本治・加藤典洋という二人の先輩のことを書いているうちに、上げていなかったことを知った。

 半年遅れだけれど、掲げておく。

 

 加藤さんがご病気だということは、去年の11月に高橋源一郎さんから伺った。ちょうど高橋さんが明治学院大学を退職されるに当たって連続対談を企画していて、僕の次の回に加藤さんが登壇される予定だった。僕との対談の終りに、高橋さんが「加藤さんがご病気で次回は中止になりました」とアナウンスした。少し前までは対談に出るつもりでいられたのだから、それほど深刻な病状ではないのだろうと思った。とりあえず、加藤さんにTwitterで「お大事に」とお見舞いの言葉を送ったら、すぐに「ありがとう」という短いご返事が来た。笑顔の「顔文字」が付されていた。

 加藤さんは養老孟司先生が毎年主宰される新年会(僕は勝手に「野蛮人の会」と呼んでいた)のメンバーでもあったので、次はそのときにお会いできるだろうと思っていたが、このときも欠席された。養老先生が、「加藤くん、あまりよくないみたいだ」と誰にともなくつぶやいて、少しのあいだ座がしんと静まった。

 でも、四月の末には加藤さんから『九条入門』という新刊が届いた。日本国憲法制定過程を徹底的に調べ抜いた労作である。一読して、僕は『敗戦後論』以来の衝撃を受けた。加藤さんはあれからも足を止めることなく、『戦後入門』、『九条入門』と一連の論考を通じて、憲法と天皇制についての根本的で困難な問題を深追いし続けていたのである。

 その巻末には、憲法制定以後の、安保改定と自民党単独政権の時代から現在にいたる日本戦後史について「その詳しい歴史は、おそらく次の本で書くことになるでしょう」と予告されていた。それを読んでほっとした。よかった、まだ次がある。それくらいにはお元気なんだ、と。そして、体調不良の中で、病身に鞭打って調べものを続け、病室で執筆を続けているはずの加藤さんにエールを送る意味で、自分のブログにこの新刊の重要性を論じた長文の書評を掲げた。結果的に、それが僕が生前に加藤さんについて書いた最後の文章になった。もし、加藤さんがまだネットで情報検索できるほどの体力が残されていたら、読んでいてくれていたかも知れない。そうであったらよいのだが。

 でも、不思議な因縁だ。僕の物書きとしてのデビュー作である『ためらいの倫理学』は加藤さんの『敗戦後論』についての長文の書評を核として編まれた評論集である。そこで僕は加藤さんの所論を敷衍して、「歴史主体」論争において加藤さんを支持する立場を明らかにした。『敗戦後論』は加藤さん自身によれば「悪評が大部分」の苛烈な批判にさらされたテクストだったので、僕はその時点では例外的少数に属していた。

 その『ためらいの倫理学』を加藤さんはある地方紙の書評欄で取り上げてくれた。はじめてお会いしたときにそのことを告げて、「内田君のことを日本で最初に書評で取り上げたのはたぶん俺だよ」とちょっとうれしそうな顔をしていた。それが15年前のことである。

 それからも加藤さんは僕の書き物をよく批評してくれた(僕も新刊を読むたびにブログに書評を書いた)。加藤さんの『僕が批評家になったわけ』を読んでいる途中で、いきなり「内田は」が出てきて、僕の『他者と死者』が俎上にあげられて、椅子から転げ落ちそうになったこともあった。

 二年前の夏に長野で講演と対談をしたのが、いまから思えば、ご一緒した最後になったのだが、そのときは加藤典洋さんが「どんなことが起こってもこれだけは本当だ、ということ 激動の時代と私たち」というお題で、僕が「帝国化する世界・中世化する世界」でそれぞれ1時間の講演をしてから、対談した。

 加藤さんは「どんなことが起こっても『これだけは本当だ』と言い切れる」腹の底にしっかりすわっている身体実感と、「こういうふうに考えるのが正しい」という叡智的な確信の間には必ず不整合が生じると言い、それを二階建ての建物に喩えた。身体実感が一階部分、知的確信が二階部分に当たる。その二つが一致しているように思える時もある。けれども、歴史的与件が変わると、二階部分が現実と齟齬するということが起きる。

 例えば、幕末の尊王攘夷運動における薩長と水戸藩では、水戸藩はイデオロギー的にはすっきりしていたけれど、現実と齟齬していた。薩長はイデオロギー的には支離滅裂だったけれど、現実に適応しようとはしていた。結果、現実に適応して「尊王攘夷」から「尊王開国」に「変節」し、「転向」した薩長が政治的勝利を制した。イデオロギー的に「すっきりしている」ことはその組織や運動が持ちうる現実変成力と相関しない。これは思えば『敗戦後論』以来の変わることのない加藤さんのスタンスだったと思う。

「一階の批評」というのは加藤さんの用語である。二階の叡智的な高みから見下ろすと、一階は臆断の渦巻くカオスに見え、地下室の無意識の暗闇から見上げると、一階の住人が信じている秩序や世界の適所全体性の虚妄が透けて見える。でも、加藤さんはあえて一階にとどまることを選んだ。そこがわれわれの生き死にする現場だからである。加藤さんはこう書いている。

「筆者は軟弱な人間である。謙遜ではなく、軟弱であることを価値であると考えている人間である。この一階だけがすばらしいといっているのではない。むろん、一階にいるだけでは問題は解決しない。ひとはいまそれですむ世界には、生きていない。時に二階に上がり、また地下に降りることも必要となるだろう。それどころか一階の床が抜け、地下に落下することすらあるかもしれない。

 しかし、たとえそうなったとしても、つねに一階の視点を失わないこと。そのことが大事ではないだろうか。(...)ふだんの人間がふだんにかんじる場所だからといって、そこに居続けることがそんなに簡単でないのは、ことばをもつことが、ふつうは、二階に上ることであり、でなければ、地下室に下ることだからである。ことばを手にしてしかも一階の感覚をもちつづけることは、そうたやすくない。」(『僕が批評家になったわけ』、246頁)

 「一階の感覚」を持ち続けながら地下深く、地上高く思量し、表現すること。それが加藤さんが選び取った行き方だった。自分の限界をわきまえ、自分の弱さ、脆さを引き受けて、その中に踏み止まって、できる限りのことをする。その「できる限りのこと」がどれほどのものであり得るか、加藤さんは身を以てそれを示した。

 

 大瀧詠一、橋本治に続いて、たいせつな、ほんとうにたいせつな先達を失ってしまった。