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内田樹さんの「今年の10大ニュース」(前編) ☆ あさもりのりひこ No.792

ついに人間的に成熟することも、十分な知識を身につけることもなく人生を終えるのである。

 

 

2019年12月31日の内田樹さんの論考「今年の10大ニュース」(前編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

今年の十大ニュース

 

恒例により、大晦日に一年を回顧してみる。

 

1・古稀のお祝いをしてもらう

 満で69歳になったので、凱風館の門人たちが中心になって神戸シェラトンホテルで1年前倒しで古稀のお祝いをして頂いた。

「人生七十古来稀」である。古来稀なりの年齢になってしまったけれど、あまり実感がない。

 いや、身体のあちこちにガタが来ていることはわかる。以前だったら軽々とできたことが「よっこらせ」と自分を励まさないと始められない。そろそろ「お迎え」に向けて覚悟を決めなければいけないということもわかる。なにしろ、年金受給者になったのだし、先日は神戸市から「高齢者用無料パス」の申請書が送られてきたんだから。

 しかし、「人生、見るべきほどのことは見つ」というところまで達観できない。

 逆である。

 書斎の本棚を見上げても、「ああ、ここにあるこれらの本のほとんどを結局俺は読まずに終わるのか」としみじみ思う。読むべきだとわかっている本、若いときから「いつかはきっと読むだろう」と思っていた本のほとんどを読むことなしにわが人生を終えるのである。ついに人間的に成熟することも、十分な知識を身につけることもなく人生を終えるのである。

 自分の無知と未熟を嫌というほど思い知らされるのだが、さりとて「これから努力して何とかします」という言い逃れがもう効かない。Time's up である。

 なるほど、これが老いるということであるのかとしみじみ思う。

 若い時には自分が老いるということがうまく想像できなかった。

 老いたおかげで、どうして若い時に「老いた自分」を想像できなかったのか、その理由だけはわかった。

「頭の中身は若者のままなのだけれど、身体機能ばかりが衰え、周りからも老人扱される19歳」というような怪しげな生き物の心境を19歳の私に想像できたはずがない。

 いまはその「怪しげな生き物」を日々生きているわけであるから、それがどういう感じのものかはよくわかる。よくわかるけれど、その感じをタイムマシンで50年前にもどって19歳の自分にわかるように説明することはできないだろうと思う。

 19歳の自分にはどれほど情理を尽くして説明しても決して理解できない「感じ」がいまはよくわかるということが「老いの手柄」ということなのかも知れない。

 

2・「船弁慶」のシテを務める

 6月の下川正謡会で能「船弁慶」のシテを務めた。

 お能のおシテを演じるのは「土蜘蛛」「羽衣」「敦盛」に続いて4回目。

 「土蜘蛛」と「敦盛」は前シテが直面だし、出番も短い。「羽衣」は中入りなしで、最初から最後まで立ったままで、舞もなかなか楽しい。でも、「船弁慶」は前シテが静御前、後シテが平知盛の幽霊。現実の女性と怨霊の男性を演じ分けなければいけない。それだけではなく、前シテはほぼ座ったまま(これがつらいの)、後シテは長刀を振り回しての立ち回りという、心理的にも身体的にもかなり過酷な能である。

 一年間かなりハードな稽古を積んだ結果、舞台は無事に終わり、自分でも納得できたけれども、膝を傷めてしまった。なかなか治らない。

 

3・橋本治・加藤典洋のお二人を鬼籍に送る。

 1月29日に橋本治さん、5月16日に加藤典洋さんというふたりのたいせつな先輩がご逝去された。

 このお二人と養老孟司、関川夏央、堀江敏幸の五人の方々が僕が2007年に第六回小林秀雄賞を受賞したときの選考委員だった。

 選考委員を代表して、橋本治さんが授賞理由についてお話をしてくれた。舞台に並んで立って、橋本さんが僕の『私家版・ユダヤ文化論』について語ってくださるのを横で聞いた。なんだか夢のようだった。

 橋本さんは20代からの僕の久しい「アイドル」であった。『桃尻娘』からあと、ずっと読み続けた。亡くなったときに、書棚にある橋本さんの本を数えたら125冊あった。それでも橋本さんの全作品の半分に及ばない。どれほど影響を受けたかわからない。

 

 加藤さんとはじめてお会いしたのは、鎌倉の鈴木晶先生のおうちで、雨の中のBBQの席でだった。

 鈴木さんが「高橋源一郎が近所だから呼ぼうよ」ということになって、電話をかけたら、たまたまその日高橋さんに会いに来ていた加藤さんも同道された(橋本麻里さんと千宗屋さんも一緒だった。ずいぶん豪華なゲストだ)。

 それが加藤さんとお会いするはじめてだった。

 僕の批評的な作物としてのデビュー作である『ためらいの倫理学』は加藤さんの『敗戦後論』についての論考をひとつの軸にしたものである。この本をめぐる論争の中で、加藤さんの側に理ありとしてコメントした人はあまりいなかった(加藤さんによると「孤立無援」だったらしい)。僕は加藤さんの側に立って論陣を張った例外的な一人だった。

 加藤さんは当時信濃毎日新聞に連載していた時評に『ためらいの倫理学』を取り上げてくれた。加藤さんによると「日本で一番早く内田さんのことを論じたのは僕だよ」ということであった。

 その加藤さんと鈴木さんのおうちではじめてお会いしたのである。このメンバーだから、話が弾んで止まらない。夜遅くまで話し続けた。加藤さんは志木のご自宅に帰るつもりでいたのだけれど、話が止まらなくなって終電を逃し、僕が鎌倉駅前に取っていたホテルのツインの片側で寝ることになった。ホテルの部屋でも話が止まらず、翌朝の横須賀線の中でも話が止まらなかった。

 それからも養老先生が主催されている「野蛮人の会」で毎年暮れにお目にかかったし、アルテス・パブリッシングで対談本の企画があって、2009年から10年にかけて、長い時間対談をした(残念ながら本にはならなかったけれど)。

 加藤さんと最後にお会いしたのは、2017年の8月に長野の須坂市で行った「信州岩波講座」だった。そのときに加藤さんは「一階の批評」について話した。

「加藤典洋さんを悼む」というブログ記事にそのことは書いたけれど、加藤さんが「一階」と呼んだのは、現実を高みから一望俯瞰する「二階」でもなく、現実を無意識の欲動や衝動越しに眺めることのできる「地下」でもない、この現実のことである。

加藤さんはこう書いている。

 

「筆者は軟弱な人間である。謙遜ではなく、軟弱であることを価値であると考えている人間である。この一階だけがすばらしいといっているのではない。むろん、一階にいるだけでは問題は解決しない。ひとはいまそれですむ世界には、生きていない。時に二階に上がり、また地下に降りることも必要となるだろう。それどころか一階の床が抜け、地下に落下することすらあるかもしれない。

 しかし、たとえそうなったとしても、つねに一階の視点を失わないこと。そのことが大事ではないだろうか。(...)ふだんの人間がふだんにかんじる場所だからといって、そこに居続けることがそんなに簡単でないのは、ことばをもつことが、ふつうは、二階に上ることであり、でなければ、地下室に下ることだからである。ことばを手にしてしかも一階の感覚をもちつづけることは、そうたやすくない。」(『僕が批評家になったわけ』、246頁)

 

「ことばを手にしてしかも一階の感覚をもちつづけること」に加藤さんは全力を尽くした。みごとに一貫した仕事ぶりだったと思う。

 大瀧詠一、橋本治、加藤典洋と僕が兄事してきた先輩がたがこの数年のうちに次々と亡くなった(兄も加えると四人である)。

 

 父が80歳を超えた頃に「長生きしてつらいのは、古い友人たちがいなくなることだ」と慨嘆していた。僕はまだ「長生き」というほどではないけれど、「頼りにしていた先輩たち」が亡くなることの喪失感は身に沁みてわかる。