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内田樹さんの「国語教育について」(その5) ☆ あさもりのりひこ No.800

 「親が反対しても、教師が反対しても、友だちが反対しても、世の常識が反対しても、それでも自分の直感と心に従う勇気を持ちなさい」

 

 

2020年1月6日の内田樹さんの論考「国語教育について」(その5)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 子供たちを知的に成長させるために必要な経験は、極言すれば、それだけじゃないかと思います。世界の背後には数理的で美的な秩序が存在する。そう直感して、その秩序の一部を自分がいま発見したという高揚感。これは探偵の推理と同じですね。断片的に散乱している事象の背後に、きれいな1本のストーリーが見えたと感じたときに探偵が感じる達成感。平たく言えば、これが論理的であることの「報奨」だと思うのです。

 自然科学というのは、まさにそういうものです。ある仮説を思いつく。実験でそれを検証する。反証事例が見つかる。仮説を書き換える・・・この無限のサイクルが自然科学的に思考するということです。信仰を持つこともそうです。一見するとランダムに見える事象の背後に「神の摂理」が働いていると感じること。宗教的知性と科学的知性は構造的には同じものなのです。だからニュートンのライフワークが聖書解釈であり、伝道の実践だったということには少しも不思議はない。

 ネガティヴなかたちでは、陰謀史観もそうです。すべての政治的・経済的事件の背後にはユダヤ人の世界政府がいる、フリーメーソンがいる、イリュミナティがいる、コミンテルンがいる・・・という類の理論は思考パターンとしては同一です。一見すると無関係に見えるさまざまな事象が「すべてを差配している張本人」を仮想するとみごとに説明がついてしまう。その高揚感と全能感があまりにも大きいので、人々は簡単に陰謀史観にアディクトしてしまう。

 でも、これは確かに責められないわけで、「複雑に見える事象の背後にはシンプルなパターンがある」という直感ほど人をわくわくさせるものはないからです。だから、陰謀史観というのも、幼児的ではあるけれど、ひとつの知性の活動ではあるのです。ただ、そういうものに溺れるのは、子供の頃から世界を観察して、繰り返し自力で仮説を立て、そのつど知的高揚を味わった・・・という仕方で論理を突き詰めた経験を持たなかった人たちなんだと思います。子供の頃から「知的興奮」をし慣れていたら、こんな薄っぺらな仮説には何の知的高揚も感じないはずだからです。そんな単純な説明のどこが面白いのか、さっぱりわからないから。だから、そんなものは相手にしない。子供のころから繰り返し「宇宙の真理を発見した!」とひとり興奮しては、「あ、違った・・・」という落胆を味わうということを繰り返してきた人は、こんなシンプルなストーリーにはひっかかりません。

 

 学校教育で教えるべきことは、「跳ぶ」ことの喜びだと先ほど申し上げました。目の前に散乱している断片的な情報や事実を観察しているうちに、すべてを説明出来る仮説を思いつく。おお、ついに統一的で、包括的な真理を発見したと思って、欣喜雀躍する。論理的思考が導くならば、それがどれほど法外な「コロラリー」であっても、それを検証しようとする。それが「跳ぶ」ことです。

 でも、「跳ぶ」ためには勇気が要ります。ある程度までは論理的に思考しながら、最後に「そんな変な話があるものか・・・」と言って、立ち止まって、論理が導く結論よりも、常識の方に屈服してしまう人たちがいます。彼らに欠けているのは、知性というよりは勇気なんです。

 今の日本の子供たちに一番欠けているのは、こう言うと驚かれるかも知れませんけれど、知力そのものではなくて、知力を駆動する勇気なんです。自分の知力に「跳べ」と言い切れる決断力なんです。

 でも、子供たちに向かって「勇気を持ちなさい」と語りかける言葉を学校で聞くことはほとんどありません。文科省がこれまで書いた教育についての指示や提言を読んでも、そこに「勇気を持て」という文言はまず出て来ません。逆です。文科省が教員や子供たちに語って聞かせているのは、いつでも「怯えろ」「怖がれ」ということです。学力がないと社会的に低く格付けされ、人に侮られ、たいへん不幸な人生を送ることになる。それがいやなら勉強しろ・・・というタイプの恫喝の構文でずっと学習を動機づけようとしてきました。

 知性は勇気によってドライブされるという言明を過去に日本の教育行政が認めたことは一度もないと思います。でも、僕が見て来た限り、すべての卓越した知性は、世間の誰もが同意しないアイディアについても、自分の直感を信じて、それを現実で検証してみせた。

 

「勇気」という言葉で、最も印象に残っているのは、スティーブ・ジョブズのスタンフォード大学の卒業式の式辞です。今もYouTubeで検索すれば見られます。感動的なスピーチでした。

 ジョブズがスタンフォード大学の卒業生たちに向かって言ったのはこういう言葉でした。The most important is the courage to follow your heart and intuition, because they somehow know what you really want to become

「最も重要なのは、あなたの心と直感に従う勇気です。なぜなら、あなたの心と直感は、あなたが本当は何になりたいのかをなぜだか知っているからです。」

 このステートメントでのキーワードは「勇気(courage)」です。気をつけてください。ジョブズは「あなたの心と直感に従うこと」が最も大切だと言っているのではありません。「あなたの心と直感に従う勇気」が最も大切だと言っているのです。それは「あなたの心と直感に従う」ことを周りが許さないからです。「何をバカなことを言っているんだ」「そんな非常識なことを誰が認めるものか」。必ず反対される。ほとんどの若者たちは、ある時期になると「こういう生き方をしたい」「こういうことを学びたい」「こういう仕事をしてみたい」というアイディアを抱きます。その多くはたしかに「心と直感」がもたらしたものです。でも、ほとんどの若者はそれを実現することができません。周りが反対するからです。「そんな夢みたいなことができるものか」「分相応の生き方をしろ」という言葉で回りが冷水を浴びせかける。そして、実際に、多くの若者はそれでしょんぼりして、自分の「心と直感」が教える「自分がほんとうになりたいもの」になれずに終わる。彼らに欠けていたのは何でしょう。こういうふうに生きたいというアイディアはあったんです。こういうことがしたいという欲望はあったんです。でも、それに従う勇気がなかった。

 心に浮かんだ夢を実現するためにはいろいろな社会的能力が要ります。お金やコネクションや、幸運も要ります。でも、心と直感に「従う」ためには、とりあえず勇気さえあればいいんです。そこからしかものごとは始まらない。最初の一歩は「勇気」なんです。

 

 子供たちにほんとうに伝えなければいけない言葉は、「親が反対しても、教師が反対しても、友だちが反対しても、世の常識が反対しても、それでも自分の直感と心に従う勇気を持ちなさい」ということなんです。でも、おそらくそれは今の学校教育で最も教えられていないことだと思います。(後略)