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内田樹さんの「映画『Workers被災地に起つ』神戸・元町映画館でのアフタートーク(前編)」 ☆ あさもりのりひこ No.815 

誰かが自分の生命身体や財産や自由を公共のために差し出すことで、はじめてそこに公的秩序が生まれる

 

 

2020年3月2日の内田樹さんの論考「映画『Workers被災地に起つ』神戸・元町映画館でのアフタートーク(前編)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

去年の10月に元町映画館で『Workers被災地に立つ』というドキュメンタリー映画のアフタートークをした。ひどい風邪をひいている時で、微熱はあるし、咳は出るし、たいへんつらいトークだった。それでも必死に話をした。

 

 古くからの友人・平川克美君に頼まれて、映画『Workers 被災地に起つ』を2回観ました。2度見ると「なるほど、こういうことだったのか」と気づくことがありました。

 平川君は、国や地方自治体に頼ったり、力ある人から支援を引き出すのではなく、「弱者を支援するのは弱者である」とよく言っています。僕も同じ意見です。「公共を支えるのは公共ではなく、私人である」。

 公共というのは、そこに自然物のようにあらかじめ存在するものではなく、私人が「身銭を切って」立ち上げる他ないものです。

 ホッブスやロックの近代市民社会論によると、未開状態においては、全員が私的利害を排他的に追求する「万人の万人に対する戦い」が展開していたということになっています。しかし、全員がわれがちに私利私欲を追求していると、私利私欲が安定的に満たされない。それよりは私権の一部、私有財産の一部を「公共」に供託して、共同管理する方が私権・私有財産の保全上はむしろ有効だということに経験的に気がついた。そうやって人々が私権・私有財産を少しずつ供託することで「公共」が立ち上がり、近代国家ができた・・・というのがホッブスやロックが考えた近代市民社会論のアイディアでした。歴史的事実として「万人の万人に対する戦い」というようなことがあったのかどうかは定かではありませんが、近代国家、近代市民社会を基礎づけるアイディアとしては、僕はこれはよくできたストーリーだと思います。

 映画『マッド・マックス』や漫画『北斗の拳』は国家や市民社会が崩壊して、法律も実効力のある司法機関もない無法の世界を描いています。そこでの主人公のミッションは、弱い人たちを守り、理非の筋目を通し、じわじわと局所的に秩序を回復させてゆくという物語です。

 ハリウッド西部劇もそうです。無法者が支配する町にヒーローがやってきて、強きを挫き弱きを助けて、その町に局所的な秩序を立ち上げる。そういう物語が繰り返し量産されたということは、人々が「そういう物語」を求めていたということだと思います。

 これらの物語が教えているのは、誰かが自分の生命身体や財産や自由を公共のために差し出すことで、はじめてそこに公的秩序が生まれるということです。私人が公共を立ち上げるのであって、どこかから出来合いの公共がやって来るわけではありません。

 でも、実際には「公共なるもの」が自分の外側に自存していると信じている人があまりに多い。そして、何か困ったことがあると「公的機関が何とかすべきだ」と口を尖らす。もちろん、公的機関はそのために存在するのですから、そう権利請求は正当なのですけれど、それと同時に自分たちが「身銭を切る」ことでまず公共は成立したという前後関係を忘れてはいけないと思います。

 よく「タックス・ペイヤーとしての自覚を持て」ということを言いますが、これを「税金を払っているんだから、払った分だけ回収する権利がある」というふうに考える人はいささか底が浅いと僕は思います。私人たちが「払った分」を全額回収したら、公共は崩壊してしまうからです。「タックスペイヤーとしての自覚」とはむしろ「公共を適切に機能させる責任は自分たちにある」という自覚を持つことだと思います。  

 私物を公共的な場に供託して、そこに「コモン(共同管理地・入会地)」を立ち上げるという場面が映画『Workers 被災地に起つ』の中にはいくつも出てきました。映画の中で被災者の一人は「生き残ったことは、天から命を与えられたこと」だと語っていました。自分の命はもう「私物」ではない、それは公共のために活用すべきものだ、と。

 わずかな手持ちの資源、命や体力、善意を公共のために差し出そうとする人たちを映画は描いています。例えば限界集落化して、存亡の瀬戸際にある山里に行って、生業を受け継ごうとしている人々。

 真面目な社会派ドキュメンタリーなのですが、実は『マッド・マックス』や『北斗の拳』と同じ物語なのだと思います。映画の冒頭に登場する「ねまれや」の女性は、多世代の居場所をつくろうとして役所に支援を頼みに行くと、「人口が減っていく地域に、そんな施設など作ってどうするのか? そんな施設に経済合理性があるのか?」と言われて、「ムカついた」と感情的になるシーンがあります。この映画の中で「怒り」を表した場面は、たぶんこれが唯一だったと思います。しかし、この「怒り」は、この映画のテーマを集約的に表現していたと思います。彼女は「何のために公共があるのか?」という根源的な問いをここで提出していたのです。

 残念ながら、多くの役人たちは「公共は初めから、盤石のものとして、そこにある」と信じています。自分たちが私権の制限や私有財産の供託によってかろうじて存立しているという自覚がない。だから、自分たちの組織や既得権益を必死になって守ろうとする。ひどい場合には、公職にある人たちが、公的権力を私的に利用し、公共の財産を私物化している。

 

 僕が問題だと思ったのは、「公」と「私」についての基本的な常識が、日本ではほとんど教えられてないことです。ごく稀に、大きな事故や天変地異に遭遇したときに、人々は「公共」とは何かについて改めて考えさせられるけれど、ふだんはまず考えません。「ねまれや」の女性は公共は誰かに頼って、作ってもらうものではなく、身銭を切って、自分で立ち上げるしかないものだと自覚して、手持ちのものを差し出して、「小さな公共」を創り出しました。この映画では、すべてのエピソードが「小さな公共」を手作りした話です。