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内田樹さんの「20世紀の倫理―ニーチェ、オルテガ、カミュ」(その1) ☆ あさもりのりひこ No.818

説明できないことについては説明しないのが大人の態度である。

 

 

2020年3月2日の内田樹さんの論考「20世紀の倫理―ニーチェ、オルテガ、カミュ」(その1)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

『ペスト』がいきなり売れ出したということで、集英社の伊藤さんからカミュ論の旧稿をウェブに上げたいという提案を頂いたけれど、これがとてもそのままではお目にかけられるようなクオリティではない。その時にHDの筐底から「こんなもの」が出て来た。たぶん1995年くらいに大学のリレー講義の一部で、「20世紀の倫理」というのを3回くらい担当したことがあって、その時に作ったノートである。そのあと大学の紀要に載せたのだけれど、単行本には採録されていないと思う。カミュ論の部分はのちに改稿して『ためらいの倫理学』という論文になって、同名の論集に収録されている。前半の「倫理についての思想史的概説」は学生向けに書いたので、たいへんにわかりやすい。

                              

1・倫理なき時代の倫理

 神戸の小学生殺人事件のあと、あるトーク番組で「なぜ人を殺してはいけないんですか?」と発言した中学生がいて、物議をかもしたことがあった。おそらく、彼はそのときまで、その問いに対して納得のゆく答えをしてくれる大人に出会ったことがなかったのだろう。それだけ、この問いは「ラディカル」な問いかけだということである。その場に私たちが居合わせたとしても、限られた時間のうちに彼を説得できたかどうかは分からない。たぶんできなかっただろうと思う。

 しかし、この問いは立てられて当然の問いであると私たちは思う。思春期の少年がこの問いを立てることは、精神の成長にとってはしごく健全なことである。むろん、この問いに容易には答えが出せない。自分自身の責任において、暫定的な解答を絞り出してゆくほかない。自力でその答えを出すことが私たちの社会においては一種の「通過儀礼」に相当すると私は考えている。

 「なぜ人を殺してはいけないのか?」経験的に言って、この問いに対するとりあえず穏当な回答は「そういうふうに決まっているから」というものである。

 人間社会は、私たちが平和的に共存してゆけるようにさまざまな制度を整えている。言語や親族制度や貨幣はそのためにつくられた装置である。それがどういう「起源」に由来するのかは仮説でしか答えられない。なぜ人間は分節音声を言語として使うのか? なぜ人間は集団を作るのか? なぜ人間は「もの」を交換するのか? こういった問いには「そういうふうに決まっている」という以外に答えようがない。説明できないことについては説明しないのが大人の態度である。

 だからといって、この中学生の問いかけを「そんな問いを立てること自体が不道徳である」と圧殺することには私は反対である。それは「倫理とは何か?」という問いかけに対して「そのような問いかけは倫理的ではない」と答えるのに似たナンセンスである。というのも「なぜ人を殺してはいけないのか?」というのは、おそらくもっとも根源的な倫理の問いだからである。 

 議論を先に進める前に、まず「倫理」という術語の語義を確定しておきたいと思う。倫理とは「これをしなさい、あれをしてはいけない」という善悪の項目を列挙した「カタログ」のことではない。倫理とは、そのような「カタログ」を「そのつど決定するプロセスそのもの」のことである。文法用語を借りれば、成文化された道徳律が「決定されたこと」であるとすれば、倫理とは「決定する」の動詞形である。例えば、「人を殺してはいけない」という準則そのものは倫理ではない(それは倫理に媒介されて事後的に定律されたものである。)「なぜ人を殺してはいけないのか」と自らに問うこと、そのような思考の運動をこの論考では「倫理」と呼ぶことにする。

 私たちは重大な決定を前にして、たいていの場合、ためらい、迷う。なぜなら「なすべきこと、なしてはならないことの網羅的なカタログの決定版」が私たちには与えられていないからである。数学では、あることを真実であると証明するためには、それより上位の、より包括的な真実(「公理」と呼ばれる)による根拠づけが求められる。しかし、善悪、正邪、理非の判断については、万人に普遍的に妥当する「公理」のようなものはない。

 かつては「至高者」が君臨して、すべてを覆い尽くす「聖なる天蓋」を形成していた時代があった。行動の規範は「神」から私たちに絶対的命令すなわち「啓示」というかたちで与えられた。アブラハムはエホバの声を聞き、釈迦は菩提樹の下で成道を遂げ、マホメットはヒラー山の洞窟でアッラーの啓示を受けた。彼らが了解した「最初の言葉」は絶対的な真実であり、人知による懐疑の余地を残さない。この「啓示」という前提を受け容れるならば、人間の遭遇しうるすべてのケースを予測して、「なすべきこと」と「なしてはならないこと」の網羅的なカタログを作成することは、理論的には可能である。

 ユダヤ教の場合、行動規範は「・・・すべし」248条、「・・・すべからず」365条、計613条の網羅的戒律によって「カタログ化」されている。もちろんいくら古代とはいえ、613の条項で、あらゆるケースを網羅できるはずはないから、戒律だけからは判定しかねる係争が起きれば、ラビたちはどのような条文解釈によって決着をつけるか鳩首協議した。

カトリック教会には、「決疑論」の専門家がいて、複数の行動規範のあいだに矛盾がある場合の決定について議論を重ねた。(「名誉を守るために決闘に応じるべきか、殺してはならないという戒律に従うべきか」といったアポリアについては、神学者が考えてくれたのである。)しかし、そのような解釈学が可能であるのも、「啓示」という、真実性の最終的な保証があればこそである。

 時代や場所が変われば、人間は次々とあたらしい難問に遭遇する。道徳が網羅的なものであろうとすれば、「カタログ」は絶えず増補改訂されなければならない。その作業は容易ではない。しかし、「啓示」が根本にある限り、信仰が集団成員の全体に共有されている限り、「あらゆる場面を想定した行動規範についての網羅的なカタログ」を作るというアイディアは、理論的には可能だったのである。

 だから「神」が生きている時代には「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いは発せられることはなかった。十戒には、はっきりと「あなたは殺してはならない」と定めてあるし、仏教でも五戒(殺生、偸盗、邪淫、妄語、飲酒)の筆頭に殺人の禁止は挙げられている。しかし、私たちが生きている時代では、「啓示」や「戒律」をもってこの問いに答えることはほとんど説得力をもたないだろう。

 私たちの時代は「なすべきこと・なしてはならないこと」のカタログが存在しない時代である。けれども、それは倫理が不可能になったという意味ではない。神なき時代、戒律なき時代にあっても、私たちが具体的な決断の場に立ち会うたびに、そのつど善悪、正邪、理非を決せざるをえないという事実に変わりはないからだ。つまり私たちは仕事をふやしてしまったということである。

 とはいえ、網羅的なカタログがあった時代に、必ずしもすべての人間たちが道徳的ではなかったのと同じく、カタログがない時代でも、必ずしもすべての人間が野蛮であるわけではない。現代において、倫理とはかたちある規範ではなく、そのようなかたちある規範を希求する激しい欲求、あるいは「規範をつくり出さなくてはすまされない」という痛切な責務の感覚といった運動的なかたちをとって息づいている。その感覚が痛切なものであるかぎり、この「倫理なき時代」を「すぐれて倫理的な時代」へと鋳直してゆくことはつねに可能であると私たちは考える。

 私たちはさきに現代における倫理とは「決定する」の動詞形であると書いた。同じことをアルベール・カミュは次のように言い表している。

「私の興味はいかに行動すべきかを知ることにある。より厳密に言えば、神も理性も信じないときにひとはいかにして行動しうるのかを知ることにある。」(1)  

 以下の論考では、おもにヨーロッパにおける倫理の変遷をたどりながら、現代における倫理問題の緊急な主題である「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いにひとつの回答を試みたいと思う。

 

【引用出典】

(1) Albert Camus, Interview àServir,1945,in Essais, Gallimard, 1965, p.1427)