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内田樹さんの「20世紀の倫理―ニーチェ、オルテガ、カミュ」(その2) ☆ あさもりのりひこ No.819

「神は死んだ。」中世以来、ヨーロッパの文明を、ヨーロッパの人々の世界観、その日常の判断と経験のありかたを決定的な仕方で規定してきたキリスト教が、その支配的な影響力を失ったこと。これが現代世界の決定的な初期条件である。

 

 

2020年3月2日の内田樹さんの論考「20世紀の倫理―ニーチェ、オルテガ、カミュ」(その2)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

2・啓示はいつその効力を失ったのか?

 神の戒律がその効力を決定的な仕方で失ったのがいつのことか、それは思想史にはっきり刻まれている。神の死を確認したのはフリードリヒ・ニーチェであり、それは1882年のことである。

 神は自然死したわけではない。殺されたのである。人間たちが「神」という倫理の根拠を抹殺したのである。しかし、その過激な言葉ゆえに多くの人に誤解されているのとはうらはらに、その死亡宣告は、まったく無秩序な世界を作りだし、世界を混沌のうちにたたき込もうという悪意によってなされたわけではない。ニーチェは神とは別の、神よりもっと堅固な基盤の上に倫理を根付かせようとしてそうしたのである。

「神は死んだ。」中世以来、ヨーロッパの文明を、ヨーロッパの人々の世界観、その日常の判断と経験のありかたを決定的な仕方で規定してきたキリスト教が、その支配的な影響力を失ったこと。これが現代世界の決定的な初期条件である。

「おれたちが神を殺したのだ-お前とおれがだ!おれたちはみな神の殺害者なのだ!」

 ニーチェの文章はそのあとこう続く。

「世界がこれまでに所有した最も神聖にして強力なもの、それがおれたちの刃で血まみれになって死んだのだ。おれたちが浴びたこの血を誰が拭いとってくれるのだ?どんな水でおれたちは体を洗い浄めたらいいのだ?どんな贖罪の式典を、どんな聖なる奏楽を、おれたちは案出しなければならなくなるのだろうか?こうした所業の偉大さは、おれたちの手に余るものではないのか?それをやれるだけの資格があるとされるには、おれたち自身が神々とならねばならないのではないか?」(2)

 単に「神は死んだ」のではない。「私たちが神を殺した」のであり、それは単なる無神論に落ち込むためではなく、「私たち自身が神となり」、「これまでのいかなる歴史もなしとげなかったような偉大な歴史」を構築するために必要だからだとニーチェは考えた。

 ニーチェの主張はふたつの命題にまとめられる。

ひとつは、「超越者」が否定され、空席になった「神」に代わるものとして「人間」(ニーチェは「超人」と呼ぶ)が置かれなければならないということ。ひとつは、神から下された「戒律」を祖型とする古典的な「当為」はすべて否定され、「超人」が体現する「悦ばしき知識」が人間の行動を律する新しい基準とならなければならないということ、これである。

「超人」とは何か?「悦ばしき知識」とは何か? この問いについて考えるためには、少し思想史を遡ってみる必用がある。

 

3・人間中心主義の流れ-ラブレー、モリエール、ラ・ロシュフーコー公爵

 この「反キリスト教=人間主義」的な考え方はニーチェの創見ではない。中世以来、多くの思想家は、ときには暴力的な弾圧や迫害に耐えて、なお神の命じる道徳のうちよりも、それが抑圧しようとしている「人間の本能」の方に「善」を見出そうとしてきた。

 その代表的な思想家のひとり、フランソワ・ラブレー(1490?-1553) は『ガルガンチュア物語』(Gargantua, 1534)の中、彼が創造した理想の共同体である「テレームの僧院」にただ一つの戒律しか与えなかった。それは「汝自身の欲するところを為せ」(Fais ce que voudras.)である。

 ラブレーの陽気な世界観によれば、世界は善であり、人間は善であり、世界と人間はその本性の赴くままに行動するときにはじめて善き目的へと向かうことができる。自然に発生する生命の奔出こそが善であり、その生命ののびやかな流れをたわめたり、阻害したり、抑えつけるもの、それが「悪」である。ラブレーは「よきものとしての自然」(Physis)と「悪しきものとしての反自然」(Antiphysie)という単純な二項対立のうちに、世界のすべての矛盾を流し込んだ。

 ラブレーやモンテーニュ(1533-92)によって代表される人間中心主義思想は、モリエール(1622-1673)やラ・ロシュフーコー公爵(1613-1680)に受け継がれる。けれども17世紀の歴史的経験はこの自然礼賛の思想のうちに少し苦い味わいを加えた。すれっからしの近代人は人間の「本来的な善性」なる観念をラブレーのように手ばなしでは信じることができない。彼らは善なる人間本性と悪しき制約としての「道徳」という二項対立を信じるには、あまりにも人間の邪悪さを知りすぎたからだ。人間はもう少し屈折した手順を踏んで道徳とかかわっている、という新たな知見が登場する。

 彼らはこう考えた。道徳は利己的な欲望達成のために功利的に活用されている道具にすぎない。自己犠牲とか誠実とか無私とか呼ばれる「道徳的行動」は、それ自体が価値であるから実践されるべきなのではなく、実はそのような「非利己的行動」を迂回して、利己心に奉仕しているから価値があるとされるのだ。これが17世紀の人間観察者(モラリスト)たちの発見である。

 モリエールの芝居には、純粋な偽善者、どこから見ても悪人というような単純な登場人物は出てこない。単純そうな農夫は利己的で邪悪な本性を無邪気さの衣で覆っている。猫かぶりの女は純潔を装うことでうまみのある結婚相手をつかまえようとする。大酒のみで徹底的に現世主義者の従僕はミステリアスな主人を畏怖している。ドン・ジュアンは悪行を尽くしながらも、超人的な勇気と冷静さを失わない。アルセストは人間嫌いのくせに、社交的でコケッティシュなセリメーヌに夢中になる。

 モリエールの登場人物たちはいずれも「ひとすじなわではゆかない」人物たちである。別の言い方をすれば「外面から判断しては内面が推測できない」人々である。それは、彼らの外面的な行動が内面的な動機の忠実な反映ではなく、内なる動機が外なる行動に現れるまでの間に抑圧や屈折や迂回や偽装などが介在して、内面が見えにくくなっているからである。そのせいで生じた誤解や行き違いや勘違いや取り違えがモリエール流の笑劇の不可欠の要素となっている。

「人間の内面は(ある種の解読装置を使わないと)見えない」という考え方、あるいはもっと踏み込んで言えば、「人間には『内面』がある」という近代的な考想そのものが公的に承認されたことの、モリエールはひとつの指標であると言えるだろう。

 とはいえ、モリエールにはまだラブレー的な人間中心主義の流れが生きている。つまり、無垢なるものが「善」であり、人工的なもの作為的なものが「悪」であるという基本的な発想である。だから、作劇術の上では、「善」は無知で衝動的で健康な欲望に身を任せている若者たちによって、「悪」は社会の汚れにまみれ、打算でしか行動しない大人たちによって定型的に演じられることになる。しかし、無垢なるものは同時に無知であり無力であり、偶然の幸運がないかぎり、自力で運命を切り開くことも、おのれの正しさを承認させることもできないことをモリエールは熟知している。

 

 同時代のモラリスト、ラ・ロシュフーコーはモリエールよりもさらに人間について手厳しい。彼に言わせればこの世には利己心しか存在しない。もっともよく知られた彼の箴言をいくつか拾ってみよう。

「われわれの美徳は、たいていの場合、偽装された悪徳にすぎない。」

「美徳は虚栄心が同伴していなければ、それほど遠くまでは行けないだろう。」

「利己心はあらゆる言葉を操り、あらゆる人間を演じてみせる。無私の人さえも。」

「多くの人にとって、感謝とはより多くの恩恵を引き出そうとする密やかな願いに他ならない。」

 ラ・ロシュフーコーのこれらの嫌味な箴言に共通するのは「美徳の迂回構造」である。私たちが何かを譲ったり、与えてみせるのは、一度手放すことを通じて、もっと多くのものを取り戻すためであると彼は考える。これは道徳についての「近代的な」解釈といってよい。彼の考え方には、宗教的な道徳観から「離陸する」新しい知見が含まれている。

もし道徳が功利的な装置であるとしたら、道徳はそのつどの社会関係に即して、利己心の達成のためにもっとも効果的なすがたを「偽装」するはずである。(他人を密告することが有利な場では、「自分の気持に忠実であること」が道徳的とされ、面従腹背が有利な場では、「自分の気持を抑制すること」が道徳的であるとされるだろう。)道徳は終わりなきプロテウス的な変身をとげ、決して同一のものにはとどまらない。美徳と悪徳、正義と邪悪とを決定するのはそのつどの社会関係であるという「道徳の歴史主義」がここに出現する。

 

【引用出典】

 

 (2) フリードリヒ・ニーチェ、『悦ばしき知識』、(ニーチェ全集、第八巻)信 夫正三訳、理想社、1962年、pp.187-189