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内田樹さんの「20世紀の倫理―ニーチェ、オルテガ、カミュ」(その3) ☆ あさもりのりひこ No.821

あらゆる社会に妥当する、道徳を基礎づけているファクターとは何か?「人間を超越した」原理ではなく、また「人間に内在する」利己心でもないとしたら、それはいったい何か?超越でも内在でもなく、それとは別の水準にあって、人間を駆動しているものとは何か?

 

 

2020年3月2日の内田樹さんの論考「20世紀の倫理―ニーチェ、オルテガ、カミュ」(その3)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

4・道徳の歴史主義-ホッブス、ロック

 善悪の観念はそれぞれの社会集団の歴史的・場所的規定性によって恣意的に決定されるという「歴史主義的」道徳観はトマス・ホッブス(1588-1679)、ジョン・ロック(1632-1704)、ジェレミー・ベンサム(1748-1832) らに代表されるイギリスの功利主義哲学においてもその基幹をなしている。

 ホッブスの「万人の万人に対する戦い」(bellum omnium contra omnes) という言葉が端的に語っているように、自然状態にある人間は、それぞれの自己保存という純粋に利己的な動機によって行動しているとするのが、功利主義の考え方である。自己実現と自己保存という「汝の欲するところ」は、人為的に定められた「実定的権利」に対して、いついかなる場所においても人間がその享受を要求できる権利ということで、「自然権」(natural right)と呼ばれる。

 この自然権の行使を万人が同時に求めた場合(ラブレーの夢想とは違って)、人々は自分のほしいものは他者から奪い取り、自分の欲求を暴力的に他者に強制することになる。この絶えざる戦闘状態にある社会では、自分の生命財産を安定的に確保することがきわめて困難であり、結果的には(ひとにぎりの圧倒的な強者をのぞく)ほとんどの社会成員が所期の自己保存、自己実現の望みを十分にかなえることができずに終わる。自然権行使の全面的承認は、自然権の行使を不可能にしてしまうというアポリアがここに生じる。

 それゆえ、とりあえず直接的・自然的欲求を断念し、そして社会契約(social pact)に基づいて創設された国家に自然権の一部または全部を委ねる方が結果的には利益が大きいと功利主義者は考える。

 例えばロックは自然状態から社会契約による政治権力装置への移行を次のように説明する。

「人間たちが共同体を構成し、ひとつの政府に服従するとき、彼らがたがいに認め合った最も重要で基幹的な目的とは連帯し、自分たちの私有財産を保全することであった。というのは自然状態にあっては、私有財産の確保のためにはあまりにも多くのものが欠落していたからである。

 第一に自然状態には、共同的な同意によって定立され、認知され、受容され、承認された法律、生じうるさまざまな係争を終結させる共通の尺度として、これに基づいて正当な請求と不当な請求、正義と不正が判定されるような法律が欠けている。(・・・)第二に、自然状態には、公正な立場にあって、法律に則って係争を終結させるだけの権威を備えていると承認された裁判官がいない。(・・・)人々は自分の利害に関係することには夢中になるが、他人の利害についてはいい加減で冷淡である。これが際限のない不正と無秩序の原因となる。第三に、自然状態には、下された判決を支援し、維持し、執行する力を持った権力が通常は存在しない。罪を犯したものであっても、可能であればまず実力を行使して、おのれの不正を押し通そうとするだろう。犯罪者の抵抗はときには彼を罰しようと企てるものをかえって危険にさらし、ときにはその命を失わせることもあるだろう。

 こういうわけで、人間たちは自然状態において享受していた数々の特権にもかかわらず、彼らのおかれていたきわめて不都合な条件のうちにいつまでもとどまることを止めて、社会を構成して暮らす方向へと強く押しやられたのである。」(3)

 この考え方は私たちにはそれほど抵抗なしに理解できる。ここにはラ・ロシュフーコーと同じ発想パターンが読みとれる。すなわち、「短期的・直接的な利益を断念することによって、より大きな長期的・間接的利益を回収する」という「迂回のメカニズム」である。人々は自然権の無制約な行使を断念する代わりに、社会契約の合意に基づいて形成された国家権力装置を通じて、より効果的に自分の私有財産を保全する。一時的に特権を断念するほうが、結果的にはより有効に特権を確保することができる。だから社会契約は、あくまでも私有財産の保全、個の自己保存、自己実現つまり自然権の最大限行使を目指しているのである。

 ホッブスによれば、たとえ国家主権といえども、その本義は国民の自然権の保障にある。だから、国民は自分たちが自然権を十分に享受できていないと判断した場合、「抵抗権」あるいは「革命権」という名目のもとに、現体制を他の政体に替える権利を保留している。17-18世紀の近代市民革命(イギリスの清教徒革命、アメリカの独立戦争、フランス革命など)がこのような理論に導かれて果たされたことは改めて指摘するまでもないだろうし、この社会契約理論は現在でも(日本国憲法をはじめとして)ほとんどの先進民主国家の憲法において、国家の正統性の根拠づけのために採用されているのも周知のことである。

 

5・道徳の系譜学へ

 近代の哲学者はホッブス、ロックからモンテスキュー、ルソー、エンゲルスに至るまで、道徳的な行動準則の成立について基本的には同じ考え方をしている。自然状態においては「社会が欠如」しており、そのために道徳は存在しないか、あるいはきわめて原始的なかたちでしか存在しない。そのような原始状態から社会契約によってテイク・オフが果たされる過程で、擬制としての道徳が法律に準じる仕方で成立した、とするのが彼らの近代的な倫理観である。

さて、このようにして(歴史学的にも考古学的にも実は根拠がない)「社会契約による社会の欠如から現存の社会への移行」という進化史観に与することは、ひとつの重要な態度決定-社会秩序の起源についてのある考え方を採用すること-を意味している。 

「人間の社会は契約から生まれると述べることは、結局あらゆる社会制度の起源がただしく人間的であり、人為的であることを宣言することである。それは社会は神の制度や自然の秩序の結果ではないと言うことである。それはなによりもまず社会秩序の基盤にかんする古い観念を拒否し、新しい観念を提出することである。」(4)

 ルイ・アルチュセールによると、社会契約説による説明は、社会は人間以外の原理(神あるいは自然)によって作られたとする「古い」仮説を退ける。この「古い」仮説はひさしく封建社会に固有の信念である「人間の本来的な不平等性」という考え方の根拠となってきたものである。人間の理解を超越し、人間の力によっては動かしようのない神や自然の摂理によって社会が成立したとする限り、ある人間が権力をもち、富を独占していたとしても、それはその人に帰された「本来的な社会性」によって説明される。(例えばボシュエの「王権神授説」)

 これに対して、社会契約説は社会的不平等を含む「自然」を欺瞞として退け、「諸制度を人間の約束の上に築き上げる。この思想は、人間に、古い制度を拒否し、新しい制度を立て、そして必要とあらばそれらの制度を新しい約束に基づいて廃しあるいは改革する機能を与えるのである。」(5)

「社会制度は人間の同意の上にはじめて成り立つ」という「新しい」考え方が「社会制度は人間を超える原理によって措定されたものである」という「古い」考え方にとって代わった。「道徳は神(あるいは自然)が制定したものである」とする「古い」考え方(哲学史的な術語で言えば「道徳の先験主義・絶対主義」)が退けられ、「道徳は人間が社会契約によって制定したものである。それゆえ「制定」することも「改正」することも、「廃絶」することも、集団の同意さえあれば可能である」とする「新しい」思想(「道徳の経験主義」)が支配的になったのである。

 しかし、私たちは「道徳についての二つの理念のあいだの覇権闘争は新しい理念の勝利のうちに推移した」という教科書的説明をそのまま鵜呑みにして済ませるわけにはゆかない。というのは、社会契約説は、それ自体が論争的、権利請求的な政治イデオロギーであり、目の前に現存する当の制度を革命するための論拠として要請されたものであり、その目的は「世界のあらゆる民族の制度を説明することではなく、既成の秩序を打破し、あるいは生まれつつあるかやがて生まれるであろう秩序を正当化することであった」からである。この説の唱道者たちは「あらゆる事実を理解することを望んだのではなく、新しい秩序を築く、つまり新しい秩序を提案し、正当化することを望んだのである。それゆえホッブスやスピノザのなかに、ローマの没落や封建諸法の出現の真の歴史をさぐることは間違いであろう。彼らは事実にはかかわりをもたなかったのだ。(・・・)彼らは自分が選んだ立場から歴史の理由そのものを作りだした、そして彼らが科学とみなしていた彼らの諸原理は、彼らの時代の闘争の中に組み込まれた-そして彼らが選んだ-諸価値にすぎなかった。」(6)

 アルチュセールの言葉をもう少し私たちの関心に即して言い換えると、「私利」をあらゆる行動の基本原理とする功利主義哲学の唯一の難点は、その哲学自体が、ひとつの党派的・階級的立場の「私利」に奉仕する哲学だったということである。

 ひとは「私利」によって動くということを論証しようとしている功利主義者自身が「私利」によって動いているとすると、これは論証すべきものを論証の前提に組み込んでいる「論点先取の虚偽」を犯していることになる。別にアリストテレスを持ち出すまでもなく、ある特定の社会集団にだけ選択的に有利な理説を、「一般的に妥当する学知」としていくら宣布してもふつうはあまり信用されない。

 いずれにせよ、19世紀の末に、近代の功利主義的な道徳観、すなわち「利己心の合理的な充足のための社会契約」としての道徳という前提をもう一度洗い直す学的な作業が思想的課題の日程にのぼることになったのである。

 その作業は一人の哲学者によって定式化された。

 あらゆる社会に妥当する、道徳を基礎づけているファクターとは何か?「人間を超越した」原理ではなく、また「人間に内在する」利己心でもないとしたら、それはいったい何か?超越でも内在でもなく、それとは別の水準にあって、人間を駆動しているものとは何か?

 この問いかけから始まる学的考究をニーチェは「道徳の系譜学」と名づけた。この学の原則は次のふたつのテーゼに集約される。

(1)「道徳の本来の問題たるものはすべて、多くの道徳を比較するところに始めて現れでるものである。」(7)つまり、道徳の系譜学は「比較道徳学」というかたちをとることになる。

(2)道徳が神の導きであるとする先験説も、道徳が合理的利己心の成果であるとする功利主義も、そのいずれをも認めない。「すべての道徳に本質的で貴重なことは、それが永年にわたる拘束だということである。」(8)

 こう宣言したニーチェによって『道徳の系譜学』(Zur Genealogie der Moral,1887)と題された書物が19世紀末に登場することになった。現代の倫理をめぐる根本的な問いはこの一冊の書物のうちに集中的に表現されているといってよい。この書物においてニーチェは彼の「人間中心主義」を極限にまで推し進めて、19世紀までのすべての道徳観を完膚なきまでに叩き潰した。

 ニーチェは、神や自然の介入を借りることも、利己心という怪しげな動機に依拠することも、ともに退け、「おのれ自身によっておのれ自身を主体的に根拠づけ、かつ、おのれの行動の理非を客観的に判定しうる方法はあるか」という19世紀までの思想家が問うことのなかった無謀な問題を設定し、その困難な問いに正面から取り組んだのである。ニーチェの回答の試みが成功したかどうかは別として、少なくともニーチェ以後、この問いを回避して倫理について語ることは誰にもできなくなった。

 

【引用出典】

 (3) ジョン・ロック、『政治論』、第9章、124節-127節

(4) ルイ・アルチュセール、『政治と歴史』、西川長夫他訳、紀伊国屋書店、

1974、p.28

(5) 同書、p.29

(6) 同書、p.30

(7) ニーチェ、『善悪の彼岸』(ニーチェ全集、第10巻)、信夫正三訳、理想 社、1967年、p.142

 

(8) 同書、p.144