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内田樹さんの「20世紀の倫理―ニーチェ、オルテガ、カミュ」(その7) ☆ あさもりのりひこ No.826

他人と違うのは行儀が悪いのである。大衆は、すべての差異、秀抜さ、個人的なもの、資質に恵まれたこと、選ばれた者をすべて圧殺するのである。みんなと違う人、みんなと同じように考えない人は、排除される危険にさらされている。

 

 

2020年3月2日の内田樹さんの論考「20世紀の倫理―ニーチェ、オルテガ、カミュ」(その7)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

8・大衆の反逆

 ニーチェの超人道徳は現代の倫理に二つの重要なアイディアをもたらした。

 ひとつは、倫理を静態的な「善い行為と悪い行為のカタログ」としては定立せず、「いま、ここにおける倫理的なる行動とは何か?」という問いを絶えず問い続ける休息も終わりもない絶望的な「超越の緊張」として、ひたすら前のめりに走り続けるような「運動性」として構想したことである。

 いまひとつは、倫理を、万人がめざすものではなく、「選ばれたる少数」だけが引き受ける責務として、「貴族の責務」(noblesse oblige)として観念したことである。

 ニーチェはこう書いている。

「高貴であることのしるし。すなわち、われわれの義務を、すべての人間に対する義務にまで引き下げようなどとはけっして考えないこと。おのれ自身の責任を譲り渡すことを欲せず、分かち合うことをも欲しないこと。自己の特権とその行使を、自己の義務のうちに数えること。(...)こうした種類の人間は孤独というものを知っており、また孤独がいかに強烈な毒を含んでいるかを知っている。」(28)

 義務についての激しい使命感、それが「孤独な」少数者にのみ求められていることについての自覚。このような意識のあり方を仮に「選び」(élection)の意識と呼ぶことにする。「選ばれた」人間は、倫理的な責務を「すべての人間に対する義務」にまで拡大することを求めない。それは彼ら「だけ」に求められている義務である。彼らに課せられた責務は「譲渡不能」であり、「分割不能」である。そのように過大な責務を割り当てられているという事実が、倫理的主体を「高貴」なものたらしめる。このニーチェ的発想それ自体は、これから論じるオルテガにもカミュにもほとんどそのままのかたちで受け継がれている。ニーチェと彼らの分岐点は、この「選ばれてあること」とは「他の人々よりも多くの特権を享受すること」とか「他の人々よりも高い地位を得ること」、つまり「奴隷」に対する「主人」の地位を要求する、というかたちをとらない点にある。それどころか、彼らにとって「選ばれてあること」の特権とは、他の人々よりも少なく受け取ること、他の人々よりも先に傷つくこと、他の人々よりも多くを失うこと、という「犠牲となる順序の優先権」というかたちをとるのである。

 ニーチェの獅子吼から30年後の大戦間期-ダダとシュールレアリスムとジャズ・エイジと「失われた世代」とボルシェヴィズムとファシズムとナチズムと世界恐慌の時代-に大衆社会のあり方を冷徹に分析した一冊の書物が公刊された。その書物が「超人道徳」と「倫理なき時代」を結ぶ、重要な論理的架橋を提供してくれる。その書物とはホセ・オルテガ・イ・ガセット(1883-1955)の『大衆の反逆』(1930)である。

 大衆社会論の古典とされる『大衆の反逆』はニーチェが「畜群」という名で罵り続けた社会階層「大衆」(masse)が、テクノロジーの進歩と民主主義の勝利によって、社会全体を文字通り空間的に占有するにいたった状況をきわめて悲観的に論じた書物である。この中でオルテガははっきりとニーチェの影響を受けた大衆社会論を展開する。それは、社会を「大衆」と「エリート」に二分し、「大衆」を徹底的に批判し、「選ばれたる少数派」の高い倫理性に人間社会の未来を託そうとする考想である。このオルテガの論の立て方は、とりわけ左翼的な知識人から「エリート主義」あるいは「貴族主義」として強い反感を買うことになった。しかし、私たちはオルテガの「精神の貴族主義」とニーチェの超人思想はまったく別ものである思う。それに、オルテガが『大衆の反逆』の中で予言したさまざまな事態-ナチズムとファシズムの勃興、革命ロシアの全体主義国家への変質、ヨーロッパの知的・政治的没落、アメリカ的ライフスタイルの世界制覇、さらには来るべきヨーロッパ統合までが、その後ことごとく現実のものとなったことを思うと、その炯眼に十分な敬意を払って然るべきだろうと思うのである。

 オルテガは大衆社会の本質をこう言い切る。

「他人と違うのは行儀が悪いのである。大衆は、すべての差異、秀抜さ、個人的なもの、資質に恵まれたこと、選ばれた者をすべて圧殺するのである。みんなと違う人、みんなと同じように考えない人は、排除される危険にさらされている。」(29)

 たしかにこの「大衆」は相互模倣を原理としている集団であるという点で、ニーチェの「畜群」に似ている。しかし、彼らの精神構造は、強圧的な支配者(「父」)を自己の外部に想定し、それへの隷従を幸福と感じる「奴隷」のそれとはかなり様子が違う。というのは、「大衆」らは近代のテクノロジーが可能にしたさまざまな物質的利便さと、民主政治によって提供された人権のおかげで、きわめて快適に生活を過ごしているからである。彼らの欲望は着々と充足されており、この欲望充足の営みを規制しようとするものにはなんであれ(たとえ「父」からの強圧的命令であれ)まるで従う気がないからである。

「いま分析している人間は、自分以外のいかなる権威にもみずから訴えるという習慣をもっていない。ありのままで満足しているのだ。べつにうぬぼれているわけでもなく、天真爛漫に、この世でもっとも当然のこととして、自分のうちにあるもの、つまり、意見、欲望、好み、趣味などを肯定し、よいとみなす傾向をもっている。(・・・)大衆的人間は、その性格どおりに、もはやいかなる権威にも頼ることをやめ、自分を自己の生の主人であると感じている。」(30) 

「勝ち誇った自己肯定」はニーチェにおいては「貴族」の特質とされていた。オルテガにおいて、それは「大衆」の特質とみなされる。ニーチェの「畜群」は愚鈍ではあったが、自分が自力で思考しているとか、自分の意見をみんなが拝聴すべきであるとか、自分の趣味や知見が先端的であるとか思い込むほど図々しくはなかった。ところがオルテガ的「大衆」は傲慢にも自分のことを「知的に完全である」と信じ込み、「自分の外にあるものの必要性を感じない」まま「自己閉塞の機構」のなかにのうのうと安住しているのである。ニーチェにおいては貴族だけの特権であったあの「イノセントな自己肯定」が社会全体に蔓延したのが大衆社会である。

 自己肯定と自己充足ゆえに、彼らは「外界」を必要としない。ニーチェの「貴族」は「距離のパトス」をかき立ててもらうために「劣等者」という名の「他者」を必要としたが、「大衆」はそれさえも必要としない。彼らは「外部」には関心がないのだ。

「今日の、平均人は、世界で起こること、起こるに違いないことに関して、ずっと断定的な《思想》をもっている。このことから、聞くという習慣を失ってしまった。もし必要なものをすべて自分がもっているなら、聞いてなにになるのだ?」(31)

 いまや大衆が権力者なのだ。彼らが「判断し、判決し、決定する時代」なのだ。

 

【引用出典】

 (28)『善悪の彼岸』、p.293

(29) オルテガ・イ・ガセット、『大衆の反逆』、寺田和夫訳、中央公論社、

1971年、p.394

(30) 同書、p.430

 

(31) 同書、p.438