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内田樹さんの「20世紀の倫理―ニーチェ、オルテガ、カミュ」(その8) ☆ あさもりのりひこ No.828

すぐれた人間をなみの人間から区別するのは、すぐれた人間は自分に多くを求めるのに対し、なみの人間は、自分になにも求めず、自己のあり方にうぬぼれている点だ

 

 

2020年3月2日の内田樹さんの論考「20世紀の倫理―ニーチェ、オルテガ、カミュ」(その8)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 自己充足と自己閉塞のうちにある「大衆」の対蹠点にオルテガは「エリート」を対置する。その特性は自己超越性と自己開放性である。

「すぐれた人間をなみの人間から区別するのは、すぐれた人間は自分に多くを求めるのに対し、なみの人間は、自分になにも求めず、自己のあり方にうぬぼれている点だ、(・・・)一般に信じられているのとは逆に、基本的に奉仕の生活を生きる者は選ばれた人間であって、大衆ではない。なにか卓越したものに奉仕するように生をつくりあげるのでなければ、かれにとって生は味気ないのである。(・・・)高貴さは、権利によってではなく、自己への要求と義務によって定義されるものである。高貴な身分は義務をともなう。」(32)

 なぜ「エリート」が存在しなければならないのか。オルテガはその問いに「野蛮」への退行を阻止するため、と簡単に答える。

 大衆社会とは、自己満足、自己閉塞というふるまいの結果、個人が原子化し集団が砂粒化した状態である。この「分解への傾向」をオルテガは「野蛮」と呼ぶ。

「あらゆる野蛮な時代とは、人間が分散する時代であり、たがいに分離し、敵意をもつ小集団がはびこる時代である。」(33)

 バルカン半島や中近東における民族的・宗教的な抗争や、アフリカにおける部族紛争のうちに私たちは「野蛮」の最悪のかたちを見る。これらの民族対立や宗教対立を駆動しているのは、「純粋」化、「純血」化、つまり同質な者たちだけから成る閉鎖的集団への細分化の指向である。そこで求められているのは、排除であり、差異化であり、断絶であり、内輪の言語である。そこには、自分とは異質な者と対話を試み、ある種の公共性の水準を構築し、コミュニケーションを成り立たせようとする指向が欠如している。オルテガはこれを「野蛮」と呼ぶ。

「文明」は自分とは違うものをおなじ共同体の構成員として受け容れること、そのような他者と共同生活を営めるようなコミュニケーション能力をもつものたちによってはじめて構築される。他者との共同生活を可能にするもの、それは愛とか思いやりとか想像力とか包容力とかいう個人レヴェルの資質ではない。そうではなくて、公共的な水準に擬制された制度である。

「手続き、規範、礼節、非直接的方法、正義、理性!これらはなんのために発明され、なんのためにこれほどめんどうなものが創造されたのだろうか。それらは結局《文明》というただ一語につきるのであり、《文明》はキビス(civis)つまり市民という概念のなかに、もともとの意味を明らかにしている。これらすべてによって、都市、共同体、共同生活を可能にしょうとするのである。(・・・)文明はなによりも共同生活への意志である。」(34)

「共同生活への意志」をもつもの、それが市民であり、オルテガのいう「貴族」である。オルテガによれば、「貴族」の条件は身分でも資産でも教養でも特権でもなく、この「自分と異質な他者と共同体を構成することのできる」能力、対話する力のことである。つまり、「貴族」とはその言葉のもっとも素朴な意味における「社会人」のことなのである。社会とはほんらい貴族たちだけによって構成されるべきものなのである。

「社会は貴族的である限りにおいて社会であり、それが非貴族化されるだけで社会ではなくなるといえるほど、人間社会はその本質からして、いやがおうでもつねに貴族的なのだということである。」(35)

 これで、オルテガのエリート主義がニーチェの貴族主義とまったく異質のものであることが明らかとなるだろう。ニーチェはエリートを定義するために、それが「何でないか」という否定形を重ねることしかできなかった。エリートの条件は最後には「人種」概念にまで矮小化した。いっぽう、オルテガは、はっきりと貴族がなにものであるかを語る。それは人間の特殊な形態ではなく、人間の「本来の」すがたである。だから、すべての人間が貴族になり、市民になり、公共性を配慮し、奉仕の生活を生きるすがたを「文明」の理想として語ったのである。

 ニーチェに比べるとオルテガの言葉はいかにも健全であり、凡庸であり、非浪漫的である。しかし、私たちはあえてオルテガの意見に与しようと思う。

 大衆社会は、それがどのようなテクノロジーによって満たされ、成員たちにどのような政治的特権を配分していようとも、自己開放、自己超克の契機をもたないかぎり、本質的に「野蛮」な社会である。なぜなら、大衆というのは本質的にきわだって「政治的」な存在の仕方であり、大衆社会の究極の言葉は、「私には存在する権利がある。私は正しい」に集約されるからである。それに反して、貴族社会とは「私の存在する権利」と「私の正しさ」がつねに懐疑されるような社会のことである。「私」には「私以外のもの」に優先して存在する権利があるのかどうか、「私」には「私以外のもの」を非とする権利があるのかどうかを終わりなく思い迷うような人々によって構成されている社会である。ずいぶん平凡なことのように聞こえるだろうが、「私にはひとを殺す権利がない」といかなる状況においても言い切れるということこそが、「文明人」であり、「社会人」であり、「貴族」であることの唯一の条件なのである。

オルテガによってすらりと言い出されたこのテーゼは、しかし政治的暴力が吹き荒れる現場では貫徹することのきわめて困難な「正論」である。この「正論」を机上の論としてではなく、血なまぐさい政治闘争の経験の結論として振り絞るようにして語り出した思想家について、次節以下では検討してみたい。その思想家とはアルベール・カミュである。

 

【引用出典】

(32)  オルテガ・イ・ガセット、『大衆の反逆』、寺田和夫訳、中央公論社、1971年、p.433

(33) 同書、p.442

(34) 同書、p.442

 

(35) 同書、p.395