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内田樹さんの「20世紀の倫理―ニーチェ、オルテガ、カミュ」(その9) ☆ あさもりのりひこ No.829

私たちが日常生活を無反省的に生きている時、世界は意味と現実感に充ちているように感じられる。それが不意に、とつぜん意味を失い、色あせ、不気味で、見知らぬ「異邦」の風景として感じられるようになることがある。私がここにいま存在することのたしかさが希薄になり、見慣れた人々が機械仕掛けの人形のように見えてくる。

 

 

2020年3月2日の内田樹さんの論考「20世紀の倫理―ニーチェ、オルテガ、カミュ」(その9)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

9・不条理の風土

 アルベール・カミュ(1913-1960) の思想は「不条理の哲学」と呼ばれている。「不条理」(absurde)という言葉はニーチェの「神は死んだ」を別の言葉で表現したものである。別の哲学的な用語で言い換えれば「世界の無意味性の自覚」ということになるだろう。

 私たちが日常生活を無反省的に生きている時、世界は意味と現実感に充ちているように感じられる。それが不意に、とつぜん意味を失い、色あせ、不気味で、見知らぬ「異邦」の風景として感じられるようになることがある。私がここにいま存在することのたしかさが希薄になり、見慣れた人々が機械仕掛けの人形のように見えてくる。私たちが不意に転落する、この状態をハイデガーは「世界の適所全体性の崩壊」とか「世界の完全な無意義性」というふうに表現した。ある社会学者はこれを「規範喪失」と名付けて、そのあり方を次のように記述している。

「このような限界状況はよく夢や幻想のなかに生じる。それは、世界はその〈正常な〉面のほかにもうひとつの面があって、ひょっとすると、今までそれと認めてきた現実の見方ははかなくて欺瞞でさえあるのではないかという執拗な疑惑として意識の地平に現れてくる場合がある。(...)人間存在の限界状況は、すべての社会的世界がもつ内在的な不安定さを露わにする。社会的に規定されたすべての現実は、潜在する〈非現実〉によって脅かされ続ける。社会的に構成された規範秩序(nomos)はすべて、規範喪失(anomy)へと崩壊する不断の危険に直面しなければならない。(...)ノモスは、強力で異質なカオスの力にさらされながら建立された殿堂なのである。」(36)

「異邦」感覚とは、ノモスの壁に亀裂が入り、カオスの露出に直面したときの恐怖である。それはノモスの世界の足元に底なしのカオスが開口し、無底の闇のうちに呑み込まれる経験である。この「異邦」感覚それ自体は近代の発明ではない。同じように世界の脆さを感じていた人々は古代にも中世にも存在しただろう。しかし、それが時代全体に取り憑き、時代全体に共有される「世紀病」的な気分となって蔓延したのは近代以降のことである。

「予定調和的な世界の崩壊」感覚のグローバル化にはいくつかの理由があげられる。19世紀末から始まる都市化、産業化、技術革新。電気、無線、映画、自動車、飛行機といった「近代的テクノロジー」によるライフスタイルの激変。第一次世界大戦でそのテクノロジーが産み出した戦車、戦闘機、毒ガスといった効率的な人間抹殺装置。そして貨幣価値の暴落。

 ヨーロッパには、1918年まで「年金生活者」という一つの社会階層が存在した。祖先の建てた石造りの家に住み、祖先が使った家具を使い、祖先の買った債券の利子で一生労働することなしに暮らせるこの「高等遊民」はヨーロッパの文化資本の主要な生産者であり消費者でもあった。そのような生き方が可能であったのは、ヨーロッパの主要国の貨幣価値が17世紀から第一次世界大戦勃発までほとんど変動しなかったからである。彼らにとっての「世界」のイメージは、私たちがいま想像するよりもはるかに静的で、堅牢なものであった。だから「世界の崩壊」は迫真のリアリティを以て世紀の転換期の人々によって生きられたはずなのである。

 この時期の思想家たちが競うようにこの規範喪失状態の対象化を哲学的な優先問題としたことは考えてみれば自明のことである。ハイデガーの「存在論的不安」、ヤスパースの「限界状況」、サルトルの「吐き気」、バタイユの「体験」、レヴィナスの「il y a」といった哲学的な術語はいずれもこの規範喪失状態を指示している。カミュの「不条理」もそのような経験を記述する彼のオリジナルな用語法である。カミュは不条理の経験を次のように描き出している。

「異邦性、それは世界には『厚みがある』と気づくことだ。ひとつの石がどれほどまでよそよそしく、どれほど私たちの理解に抵抗するかを、どれほどかたくなに自然が、風景が私たちを否定するかを知ることだ。すべての美しいものの底には非人間的ななにものかが横たわっている。(...)世界の原初の敵意が数千年を超えて私たちに向かって立ち上がる。その一瞬、私たちはもはや世界が理解できなくなる。なぜなら私たちが何世紀もの間、世界について理解してきたものとは、実は、私たちがあらかじめ世界に仕込んでおいた形や図柄だったからである。(...)世界は世界それ自体となり、私たちの理解を超えてしまう。(...)この世界の厚みとよそよそしさ、それが不条理ということである。」(37)

 ノモスの崩壊とカオスの露出。図式的に言えば「不条理」とは規範喪失経験そのものである。このような経験が20世紀のヨーロッパ哲学者たちひとりひとりにその思想形成の初期条件として与えられた。彼らはそれぞれにこの規範喪失経験とどう立ち向かうかというかたちで彼らのオリジナリティを構築した。そして彼らの多くは、この規範喪失状況を「教化的契機」としてとらえるという解決策を選んだのである。彼らは規範喪失状況を、乗り越えられるべき過程、弁証法的な綜合に至るための否定的な契機というふうに生産的・功利的に解釈した。いわばそれは、人間を「成長」させる教育的な「迂回」あるいは「試練」として構想されたのである。試練をたくみに通過したものは、より包括的で全体的な「上位の知」に到達することになるだろう。

 規範喪失経験を、より包括的より全体的な上位規範の定立への過渡とみなすこの予定調和的な考想をカミュは「哲学的自殺」と呼ぶ。キェルケゴール、ハイデガー、フッサール、シェストフらの哲学的理説についてカミュは厳しい断罪を行っている。

「実存哲学について言うと、どの哲学も例外なしに私に逃亡を勧める。そして、奇妙なロジックによって、彼らは理性の瓦解する不条理という場所、人間たちだけしかいない閉じられた世界のうちにありながら、彼らを圧し潰すものを神聖化し、彼らから奪い去るもののうちに希望のてがかりを見出すことになるのである。」(38)

 これらの哲学においては、人間理性の挫折の経験は「人間理性を超えるもの」-それは「超在」「存在」「超越者」などさまざまな名で呼ばれる-の認知にただちにリンクしている。しかし、論理的に言えば、「人間理性に限界がある」という命題から「人間を超える超理性が存在する」という命題を導くことはできないはずである。カミュはこの論理的飛躍を、「逃避」、「屈従」、「休息の原理」として退ける。

「不条理が存在するのは、人間の世界のうちにである。不条理という概念が永遠性への跳躍台と読み換えられる瞬間に、この概念と人間の明晰性のあいだのつながりは断たれる。」(39)

カミュは「人間しかいない、人間だけの閉じられた世界」に踏みとどまることを選ぶ。

「この不条理の状態、ここに踏みとどまることが重要なのだ。」(40)

 それは「カオスの縁」に立ちつくして、超理性であれカオスであれ、永遠性の誘惑に抗し、眩暈をこらえつつ揺れ動く均衡状態である。

「不条理が意味を持つのはバランスのうちにおいてだけである。不条理はなによりも拮抗関係のうちにあり、この拮抗関係のいずれかの項にあるのではない。」(41)

 カミュは人間がとどまるべき領域とその知的課題を次のように限定する。

「私はこの世界が私を超えるような意味を持っているかどうかを知らない。しかし私は自分がそのような意味を知らないことを、さしあたり私にはそれを知ることが不可能であることを知っている。私の限界を超えた意味が私にとって何の意味があるのだろう?私は人間の言葉でしか理解することができない。私が触れるもの、私に抵抗するもの、それが私の理解できるものだ。」(42)

 規範喪失状況をそのねじれのままに、その不均衡のままに、その空虚さのままに、まるごと引き受けること。それを跳躍台として功利的に利用して、より安定的な上位のレヴェルに身をかわすのではなく、規範喪失状況そのものを日常的に人間の眼の高さで生きること、それをカミュは選ぶ。

「境界線までたどりついた精神は判断を下し、おのれの結論を選ばなければならない。あるものは自殺し、あるものは回答する。しかし私は探求の順序を逆転させ、知性の冒険から出発して、日々の営みに戻ろうと思う。」(43)

「道はいまや日常生活に通じている。道はふたたび匿名の『人々』の世界を見出す。しかし人間はこんどは反抗と明察を携えてそこに戻ってくるのだ。」(44)

 理性の極北までたどり着き、カオスの縁から世界の無底をのぞき込んだあと、自殺することも「跳躍」することも拒否した人間は「もとの世界に戻る」他ない。それがカミュの選択である。ただしそれは「不条理」以前のように、無反省的な酔生夢死をむさぼるための帰還ではない。ノモスは脆弱な仮設造営物にすぎないことがあばかれた。しかし、世界を超越する意味や永遠の秩序を夢見ることは「理性の自殺」にすぎない。このふたいろの明晰な断念を携えて不条理の人間は世界に帰ってくる。このような推論を経由して、カミュはニーチェが残した冒頭の問いを見出すことになる。

「上位審級なしに生きることが可能かどうかを知ること、それが私の関心のすべてである。私はこの問題領域から一歩もでるつもりはない。」(45)

 

【引用出典】

(36) ピーター・L・バーガー、『聖なる天蓋-神聖世界の社会学』、薗田稔訳、 新曜社、1979年、p.35

(37) Albert Camus, Le Mythe de Sisyphe, in Essai, Gallimard, 1965,p.108

(38) 同書、p.122

(39) 同書、p.12

(40) 同書、p.128

(41) 同書、p.124

(42) 同書、p.136

(43) 同書、p.117

(44) 同書、p.137

 

(45) 同書、p.143