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内田樹さんの「20世紀の倫理―ニーチェ、オルテガ、カミュ」(その13) ☆ あさもりのりひこ No.834

「ペスト」とは「私」が「私」として存在することを自明であるとする人間の本性的なエゴイズムのことである。おのれが存在することの正当性を一瞬たりとも疑わない人間、「自分の外部にある悪と戦う」という話型によってしか正義を考想できない人間。それが「ペスト患者」だ。

 

 

2020年3月2日の内田樹さんの論考「20世紀の倫理―ニーチェ、オルテガ、カミュ」(その13)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

13・ペスト患者あるいは紳士の礼節

 長々と書き続けてきたこの論考もそろそろ結論を導くべき段階に至った。私たちは「なぜ人を殺してはいけないのか?」というラディカルな問いの答えを求めてこの論考を始めた。そしていま私たちはひとつの結論にたどりついたと思う。

「汝、殺す勿れ。」これが絶対的戒律である。その戒律の正統性は宗教的な起源によって保証されているのではないし、刑法の定める処罰への恐怖によって支えられているのでもない。その戒律の絶対的正統性は、「私」がまさに暴力をふるわんとしているそのとき、「私」をじっと見返す他者のまなざしから由来する。「私」が他者を「殺そう」とするそのときに「私」を見つめ返すそのまなざしは端的に「私」の暴力性、「私」のエゴイズム、「私」が存在することの邪悪さを、「私」に知らしめるからである。他者のまなざしは、「私」が生き、呼吸し、空間を占拠し、太陽の光を浴びていることの正当性を揺るがす。私が存在することによって、迫害され、権利を奪われ、空間を占拠され、光を遮られている他者がいることへの「疚しさ」が「私」の中に兆す。「私」が存在することの自明性についての疑念と不安、「汝、殺す勿れ」の戒律が私たちのなかにひきおこす意識の攪乱はそのようなかたちをとる。

 この「自我の存在の正当性そのものへの懐疑」としての倫理の起動は、『ペスト』の中で登場人物の一人タルーの口から語られる。

 タルーが「ペスト患者」(pestiféré)と呼ぶのは「正義の暴力」の上に築かれる社会秩序に同意するものたちのことである。彼は死刑宣告の上に成立する正義に同意することができない。かといって「もはや誰も殺されることのない世界をつくりだす」ための革命闘争にも同意することができない。そこでもまた革命的正義の名において暴力が無制限に行使されているからである。正義の名において罪人に斬首を要求する裁判官も「暴力を廃絶するための暴力」を正当化する革命家たちも、ひとしく「ペスト患者」なのである。

「全員が自分の中にペストを抱えている。この世界では誰一人その感染をまぬかれることができない。」(56)

こうしてタルーは裁判官である父のもとを去り、ついで身を投じた革命運動からも脱落する。

「ぼくが殺すことを拒絶した瞬間に、ぼくは決定的にこの世界から追放されてしまったのだ。」(57)

 タルーが最後にゆきついたのはペストが隠喩としてではなく、災禍として経験されている都市である。そこで彼はペストと戦う限り、自分もまたペストに罹患せずにはいないという出口のない状況におかれ、ある倫理的な覚知を達成する。それはペストとは「私」の「外部」にあって、戦い滅ぼすべき「悪」であるのではなく、「外部」なるものを想定し、そこの「悪」を凝縮させ、それと「戦う」という語法でしか「私」の生き方を語れないタルー自身の「症状」だということである。ペストとは自分の外側に実在する何かではなく、「私」の不幸の説明原理として、そのような「実体化された悪」をおのれの外部に探し求めずにはいられない「私」の思考の文法をそのものだということである。タルーはこのとき気づく。「私」が制御すべき最初で最大の暴力は、他でもない「私」自身が行使しているのである。こうしてタルーは一つの堅牢で美しい倫理の言葉を編み上げることになる。

「みんな自分の中にペストを飼っている。誰一人、この世界の誰一人、ペストに罹っていないものはいない。だからちょっとした気のゆるみで、うっかりと他人の顔の前で息を吐いたり、病気をうつしたりしないように、間断なく自分を監視していなければならないのだ。自然なもの、それは病原菌だ。(...)紳士とは、できるだけ誰にもペストをうつさない者、可能な限り緊張していられる者のことだ。」(58)

「ペスト」とは「私」が「私」として存在することを自明であるとする人間の本性的なエゴイズムのことである。おのれが存在することの正当性を一瞬たりとも疑わない人間、「自分の外部にある悪と戦う」という話型によってしか正義を考想できない人間。それが「ペスト患者」だ。私たちは存在しているだけですでに悪をなしている可能性がある。私たちが生きているだけですでに他者に害をなしている可能性がある。これがタルーの倫理の起点である。だから、私たちにできる最良のことは、あらんかぎりの努力をもっておのれの自分の邪悪さを抑えること、おのれを冒している病をこれ以上伝染させないことである。そのような控えめな抵抗でさえ決して容易なわざではないのだ。それを試みられる人間をカミュは「紳士」(l'honnête homme)と名づけた。

 人間は「他の人々と同じ」ように生きているだけでは、ペストへの加担から逃れることができない。人間は「より人間的になる」ためには、自らへの倫理的負荷を「他者よりも高く」設定しなければならない。そのことをこの語は含意している。自らの本性的邪悪さを浄化してゆく不断の「自己超越」(このような言葉遣いそのものはニーチェの「超人」思想とそれほど違うわけではない)。しかし、この「自己超越」は「超人」や「貴族」という(やや浪漫的な)語と「紳士」という(凡庸な)語の語感の違いが正しく示しているように、決して同じものではない。カミュの「紳士」は何らかの種族的召命を地上に実現するためにいるのではない。そのような壮大な企図は彼とは無縁である。おそらく「紳士」が日常生活の中で実践するのは、老母を敬い、妊婦に思いやりを示し、一人の相手に二人がかりでかかってゆくのをとどめるくらいのことにすぎないのかもしれないし、ドアの前で「お先にどうぞ」と人に道を譲ったりすることにすぎないのかもしれない。しかし、この「日常的な営み」はある徹底した覚悟性に支えられている。つまりそれは難破する船の最後の救命ボートの最後の席についてさえ、にこやかに「お先にどうぞ」と言い切る決意をもって口にされているのである。これは「謙譲」であり、「礼節」であり、ある種の「やせがまん」でもある。

 そのようなほとんど死語に類する概念が「20世紀の倫理」の「最後の言葉」であることに意外の感を覚える方は少なくないだろう。けれどもカミュが「均衡の原理」つまり「暴力の相互性」の倫理から、私と他者の「責務の非相称性」の倫理へと進んだ行程は極度の知的緊張だけが可能にしたものなのである。それはニーチェ以前的な境位への退行でもなく、凡庸なストック・フレーズの再録でもなく、長期にわたる苦渋にみちた省察の結論なのである。そのことは、倫理について徹底的な省察を試みたもう一人の哲学者が、カミュとほとんど同じ言葉を用いて語っているという事実から推し量ることができるだろう。私たちはこの論考の最後をエマニュエル・レヴィナスの言葉で閉じたいと思う。

「他者を尊重するとは、他者に一歩を譲るということです。『お先にどうぞ』と道を譲ることです。つまり紳士の礼節なのです。ああ、この表現はとてもぴったりしています。自分よりも先に人を行かせること。このちょっとした紳士的礼節のきらめきが他者の顔へ接近する一つの仕方なのです。けれども、どうして譲るのは『私』であって、『あなた』ではないのでしょうか?これは難しい問題です。というのも『あなた』もまた『私』に向かって近づいてきているはずだからです。けれども、紳士の礼節、あるいは倫理の本義とは、そのような相称性については論じないというところに存するのです。」(59)

 

【引用出典】

 (56) Camus, La Peste, in Théâtre, Récits, Nouvelles, p.1425

(57) Ibid., p.1420

(58) Ibid., p.1426

(59) François Poirié, Emmanuel Lévinas, Essai et Entretiens, Babel,

 

1996, p.108