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内田樹さんの「教育についての「いつもと同じ話」(後編)」 ☆ あさもりのりひこ No.838

教育というのは共同体の生き死にのかかった営みなのである。

 

 

2020年3月3日の内田樹さんの論考「教育についての「いつもと同じ話」(後編)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 2003年の小泉政権時代に特区で認可された「株式会社立大学」というのものがあった。市場の仕組みを熟知しているビジネスマンたちに大学開設の機会を与えたものであった。いざ蓋を開けてみたら、学生はぜんぜん集まらず、株式会社立大学はばたばたと倒産した。

 当然だと思う。倒産は「いかに教育活動をしないで学生たちから金を集めるか」に知恵を傾注したことの論理的帰結だったのであるが、その理路がこの実務家たちには理解できなかったのである。 

 市場原理を学校教育に適用すれば、学校はできるだけ教育をせず、子どもたちはできるだけ勉強しないように努力するようになる。よい悪いではなく、「そういうもの」なのである。

 もちろん、現実の学校は惰性が強い制度なので、そこまで極端な事態は起きない。今がそうであるように、学校は「そこそこ」教育をし、子どもたちは「そこそこ」勉強する。でも、どの程度の「そこそこ」が適正であるかについて理論的な根拠は誰も知らない。何となく惰性でそうしているだけである。何をどこまで教えたらいいのか、何をどこまで学んだらいいのか、誰もそれを確信を込めて言うことができない。それが日本の現状である。

 多くの日本人はこのことのリスクを理解していない。だから、相も変わらず、「即戦力を育てろ」とか「実用的な知識だけを教えろ」とか「実務経験者を教員に登用しろ」というような手荒な要求が財界や政治家たちから出されて来る。だが、この人たちは実務家主導の株式会社立の失敗をどう総括しているのか、まずそれを聞きたい。先方は「四半期以上前のことなんか誰が覚えているか」と言いたいのだろうが、学校教育の成果は20年、30年後になってかたちをとるのである。15年前のことを忘れるような雑な頭の人間には制度設計は任せられない。

 もう一つ言いたいのは、学校教育を「実務」に即してと主張する人たちが脳内に描いている「実務」の具体的なイメージが工場での製品製造プロセスだということである。工場で缶詰や自動車や乾電池を製造することが産業の主要形態であった時代の生産モデルに基づいて彼らは学校教育を構想している。

 仕様書に従って、規格通りの製品を、納期に間に合うように製造すべく全工程を管理するというのは前期産業社会においては支配的なスタイルだったが、今はもうそういう時代ではない。「シラバス通りに授業をしているか」とか「学士号の質保証」とかいうのは20世紀なかばまでの工場でモノを作っていた時代の用語である。GoogleAmazonの開発会議で「PDCAサイクルを回して」などと口走ったら、その場は凍り付くことだろう。別に世界トップ企業の真似をしろと言っているわけではない。けれども、「実務家」を自称する人々が半世紀も前の産業形態をモデルにして教育を語っていることに無自覚なのは滑稽を通り過ぎて悲劇である。

 私が子どもだった頃も、教育制度もまた「以前に支配的だった産業形態」をモデルに制度設計されていた。農業である。

 私が生まれた1950年に労働者の50%は農業従事者だった。その比率は以後激減したのだが、にもかかわらず、教員たちも親たちもしばらくは農業モデルで教育を語ることを止めなかった。それは「種子を蒔く、水や肥料をやる、日に当てる、風水害や病虫害から守る、収穫期に『自然のめぐみ』を享受する」という農業用語で教育が語られたということである。私たち子どもは「種子」と見なされていた。先行きどのような果実となるのかは正確には予測できない。なにしろ工程のほとんどが自然に委ねられているのである。太陽の光も、雨量も、イナゴの飛来も、人力ではコントロールできない。だから、何が実るかは分からない。それでも、何が実を結ぶにせよそれは「天の恵み」であって、人間による精密な工程管理の所産ではない。

 実際に、教員たちがガリ版で刷っていた学級通信のタイトルには「めばえ」とか「わかば」とか「みのり」とか植物にかかわる語が頻用されていた。こういうメタファーは「教育とは何か」についての、ある時代に固有のイメージを無意識的に表出している。

 ともあれ、当時の子どもたちは自分のことを「どんなものに結実するかわからない何か」だと思いなすように訓練されていた。だから、「自分探し」などという言葉はなかったし、「自分らしさ」を早く確定して、得意分野に資源を集中しろというようなことも誰も言わなかった。本人も周りも「先行き何になるかわからない」が無言の前提だったからである。その頃は中高生になっても、ぼんやりして、将来何になるのか予想もつかない子どもについては、苦笑とともに「大器晩成」という形容がよくなされた。今はもう死語だ。

 今の学校で子どもたちの自己イメージは「種子」ではなくて、「消費者」である。消費者は登場した瞬間にすでに完成している。変化しないことが前提なのである。消費者というのは「自分が何を欲しているのか知っていると想定された主体」のことである。だから、人間的属性は不問に付される。消費者の成熟など誰も問題にしない。6歳の幼児も80歳の老人も、同額の貨幣を持って店に行けば、「いらしゃいませ」と同じ挨拶を受け、同じ商品が買える。子どもたちを「消費者」と規定する限り、彼らに成長を求めることは論理的に不可能なのである。

 一方、教員たちの自己イメージは「工場労働者」である。仕様書通りに、納期に間に合うように、規格通りの製品を仕上げること、壊乱的なファクターやバグが工程に関与しないように目を光らせることがその本務である。だから、「不良品」が出た場合には教員の管理責任が問われる。農作物のように「日照時間が短かったですから」とか「台風が来て」というような言い訳は通らない。製品の質については「工場」が全責任を引き受けなければならない。ずいぶんな話である。

「現実的である」ということはその時代に支配的な世界観に同期するということである。そうしないといろいろ不便だから、「現実的」であることは必要である。けれども、「その時代に支配的な世界観」はやがて変わる。今、教育関係者が口にしている「ビジネスの言葉づかい」なるものはすでにずいぶん時代遅れのものである。それが無効であることは、日本の学校教育の壊滅的な現状を見ればわかるはずである。

 

もう紙数がないので、第二の論点は駆け足で述べる。それは「学校教育の受益者は個人ではなく、集団全体である」ということである。

 学校教育の場に消費者として登場する子どもたちにとって、学校教育は「買い物」である。学校で得られる知識であれ情報であれ技能であれ、あるは資格や免状であれ、それらはすべて「個人資産」にカウントされる。それによって彼らが将来的に高い社会的地位に就き、高い年収を受け取り、レベルの高い配偶者を得ることができるのだとしたら「買い物」に際して他人の財布を当てにすることはできない。「この車買いたいんですけど、お金が足りないので、公金で補填してくれませんか」と言い出す消費者はいない。けれども、学校教育ではそれが通る。

 もし、学校で子どもたちが手に入れるのが「個人資産」であるなら、「受益者負担」の原則を適用して、学校教育に要する全てのコストは受益者たる子どもとその親たちが支弁すべきだということになる。学校教育に税金を投じるべきではないということになる。公立学校も奨学金もあってはならないということになる。教育コストを負担できる家の子どもたちだけが私立学校に通う。貧乏人の子どもが学校に行きたければ、まず働いて、学資を貯めてから行けということになる。

 別に想像を書いているわけではない。18世紀のアメリカに公教育が導入されようとしたときに、実際にこう言って学校教育への税金の投入に反対した納税者たちが少なからず存在した。彼らはこう言った。われわれは努力と才能によって今の地位を手に入れた。だから、個人資産を投じて自分の子どもには学校教育を受けさせている。けれども、何が悲しくて、自分たちほど努力もせず、才能もなかった人間の子どもたちを教育し、われわれの子どもの「競争相手」にすることにわれわれの血税を投じなければならないのか、と。

 そのときに「なるほど、受益者負担の原則に基づけば、学校教育に税金を投じるのは間違ってますね」ということで国民的合意が成っていたら、今でもアメリカは文字が読めず、四則の計算もできない貧しい国民を大量に抱え込んだ「後進国」だっただろう。さいわいそうなっていないのは、口うるさい納税者たちを黙らせて、「学校教育の受益者は個人ではなく、集団全体である」と言い切るだけの常識をアメリカ市民が具えていたからである。

 子どもたちに生きるために必要な知識と技能を教えるのは集団全体の義務である。そんな当たり前のことを今さら声を大にして言わなければならないのは、本当に情けないことである。

 原始時代だって、大人は子どもたちがある年齢になったら、狩猟や漁労や農耕を教えた。「生きる知識と技能の受益者は子どもたち自身なのだから、まず入学金と授業料を耳を揃えて持ってこい、話はそれからだ」というような「せこい」ことを言う大人はいなかった。当たり前である。子どもたちが然るべき時期に生きる知識と技能を身につけることができなければ、遠からずその集団の成員たち全員が飢え死にすることになるからである。

 教育というのは共同体の生き死にのかかった営みなのである。それを「自動車を買う」とか「服を買う」ような行為と同列に論じることがいかに的外れであるか、そろそろ気がついてもよいのではないか。

 

 というようなことを久しく私は言い続けてきたのだが、耳を貸してくれる人は依然としてまことに少ない。