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内田樹さんの「『人口減社会の未来学』から」(その3) ☆ あさもりのりひこ No.847

悲観的になると日本人は愚鈍化する。

 

 

2020年3月18日の内田樹さんの論考「『人口減社会の未来学』から」(その3)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 その傾向が最も極端なかたちで発現したのが、さきの大戦のときの大日本帝国戦争指導部でした。「これがうまく行って、これもうまく行けば、皇軍大勝利」という「最良の事態」ばかりを次々とプレゼンできる参謀たちがそこでは重用されました。もちろん現実はそんなに都合よくはゆきません。敗色が濃厚になってから後はほとんどすべての作戦は失敗しました。けれども、作戦が失敗した場合も、その責任はしばしば作戦起案者ではなく、現場の指揮官や兵士たちが指示通りに行動しなかったことに帰されました。作戦が成功すれば立案者の功績、失敗すれば実行部隊の責任。ノモンハン以来、インパールでもフィリピンでもずっとそうでした。

 ですから、作戦起案時点で、「最悪の事態」を想定する人間が出て来るはずがない。「もしプランAが失敗したらどうするんですか?」という問いは「そういう敗北主義が皇軍の士気を低下させて、作戦の失敗を引き寄せるのだ」というロジックでただちに却下された。

 先の座談会でも、四人の論者たちは全員が「悲観的になってはならない」という点では一致していました。確かに、その通りかも知れません。けれども、この場合に気をつけなければいけないのは、日本社会では「最悪の事態を想定して、その対処法を考える」という態度そのものが「悲観的なふるまい」に類別されるということです。だから、「そういうこと」をしてはならないと厳命される。悲観的になると人は「衰退宿命論」に取り憑かれ、「なすべき対策を忘れ」、そのせいで「社会は転落する」からです。

 危機的な事態に備えている人間は別に悲観的になっているわけではないと僕は思います(とりあえず『エアポート77』を見る限りではそうです)。でも、そういうふうに考える人間は日本社会では例外的少数であるらしい。というのも、たしかに彼らの言う通り、日本人は「最悪の事態」を想定すると、それにどう対処するかをクールに思量し始める前に、絶望のあまり思考停止に陥ってしまうからです。

 人口減は対処を誤ると亡国的な危機を招来しかねない問題ですけれど、それについては政府も自治体もまだ何も手立てを講じていません。どの部局が手立てを講じるべきかについての合意さえない。それは「悲観的になると、何も対策を思いつかない」という信憑がひろく世間に行き渡っているからです。現に、経験知もそう教えている。悲観的になると日本人は愚鈍化する。

 そして、その反対の「根拠のない楽観」にすがりついて、あれこれと多幸症的な妄想を語ることは積極的に推奨されています。原発の再稼働も、兵器輸出も、リニア新幹線も、五輪や万博やカジノのような「パンとサーカス」的イベントも、日銀の「異次元緩和」も官製相場も、どれも失敗したら悲惨なことになりそうな無謀な作戦ですけれど、どれについても関係者たちは一人として「考え得る最悪の事態についてどう対処するか」については一秒も頭を使いません。すべてがうまくゆけば日本経済は再び活性化し、世界中から資本が集まり、株価は高騰し、人口もV字回復・・・というような話を(たぶんそんなことは絶対に起きないと知っていながら)している。思い通りにならなかった場合には、どのタイミングで、どの指標に基づいてプランBやプランCに切り替えて、被害を最小化するかという話は誰もしない。それは「うまくゆかなかった場合に備える」という態度は敗北主義であり、敗北主義こそが敗北を呼び込むという循環的なロジックに取り憑かれているからです。そして、この論法にしがみついている限り、将来的にどのようなリスクが予測されても何もしないでいることが許される。

 その点では現代日本のエリートたちも先の戦争指導部とマインドにおいてはほとんど変わりません。いずれの場合も高い確率で破局的事態が到来することは予測されている。けれども、破局が到来した場合には社会全体が大混乱に陥るので、そんな時に「責任者は誰だ」というような他責的な言葉づかいで糾明する人間はもういない。そんなことしている暇もないし、耳を貸す人もいない。だったら、いっそ破局まで行った方が個人の責任が免ぜられる分だけ「得」だ。それが「敗北主義が敗北を呼び込む」というロジックの裏側にある打算です。

 東京裁判の時、25名の被告の全員が「自分は戦争を惹起することを欲しなかった」と主張しました。満州事変についても、中国との戦争についても、太平洋戦争についても、被告たちは「他に択ぶべき途は拓れていなかった」と述べて責任を忌避しました。例えば、小磯國昭は満州事変にも、中国における軍事行動にも、三国同盟にも、米国への戦争にも、そのすべてに個人的には反対であったと証言しました。これに驚いた検察官は、なぜあなたは自分が反対する政策を執行する政府機関で次々と重職を累進しえたのかと問い詰めました。それに小磯はこう答えました。

「われわれ日本人の行き方として、自分の意見は意見、議論は議論といたしまして、国策がいやしくも決定せられました以上、われわれはその国策に従って努力するのがわれわれに課せられた従来の慣習であり、また尊重せらるる行き方であります。」(丸山眞男、『現代政治の思想と行動』、未來社、1964年、109頁)

 丸山眞男はこの証言を引用した後にこう記しています。「右のような事例を通じて結論されることは、ここで『現実』というものは常につくりだされつつあるもの或は作り出され行くものと考えられないで、作り出されてしまったこと、いな、さらにはっきりいえばどこかから起って来たものと考えられていることである。」(同書、109頁、強調は丸山)

 被告たちは戦争指導の要路にありながら、自分たちが戦争という現実を作り出したということをかたくなに拒みました。戦争は人間の能力を超えた天変地異のように「どこかから起って来たもの」として彼らには受け止められていたのです。それゆえ、その圧倒的な現実に適応する以外に「択ぶべき途は拓かれていなかった」と彼らは弁疏したのです。

 戦争がコントロール可能な政治的行為だとするならば、どのような理念と計画に基づいて戦争を始めたのかについての政治責任が発生します。けれども、「どこかから起って来た」天変地異的な破局であるならば、誰の身にもいかなる政治責任も発生しない。ですから、いささか意地の悪い見方をすると、戦争指導部の人々は敗色濃厚になってから後は「戦争が制御不能になること」をこそむしろ無意識的には願っていただろうと僕は思います。