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内田樹さんの「コロナ禍についてのアンケート」(後編) ☆ あさもりのりひこ No.877

県外からの車を煽ったり、車に傷をつけたりする人は、もう少し事態が悪化すれば、「死ね」というような言葉を口にできる人間だということは覚えていた方がいい。

 

 

2020年5月10日の内田樹さんの論考「コロナ禍についてのアンケート」(後編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

■この経験を機に政治に関心の高まった若い人が少なくないという話も聞きます。ほかにポジティヴな契機になりうることがあれば教えてください。

 

 日本の統治機構が安倍政権の7年間で先進国とは思えない程度に劣化したということが可視化されたことは、結果的にはよかったと思います。むろんこれからもNHKをはじめとする国内メディアはその事実を隠蔽して、「感染症対策に日本は成功した」というような政府キャンペーンに唱和するでしょう。しかし、国内はそれで通せても、世界の専門家たちが「日本政府の出すデータには疫学的に信頼性がない」という評価を撤回しない限り、各国が行き来を再開しても、日本には海外から人が来ないし、日本からは海外に出てゆくこともできない事実上の「鎖国」状態に取り残されるリスクがあります。

 それを避けるためには、情報を開示し、科学的信頼性のあるデータを出さなければならない。国内なら公文書はいくらでも改竄隠蔽できますが、国際社会相手にその手は使えない。「開国」のためのコストとして、政府が不都合なものも含めて情報の公開に踏み切ることができるならば、それは結果的には「よいこと」と評価できると思います。

 

■イギリスの、NHS(国民保健サービス)の医療従事者たちに人びとが拍手を送ったり、自分たちで率先して後方支援に動いたりする光景からは、大衆のなかに「社会」が内面化されているような印象を受けます。日本が「社会」を取り戻すにはどうしたら良いとお考えでしょうか?

 

 サッチャー政権の時の「社会などというものは存在しない」という突き放した自己責任論によってイギリスの国民的連帯は分断され、労働者階級の貧困化が進み、「アンダ―クラス」という新しい階級が生まれました。そのことについて、今のイギリス社会には歴史的反省が始まっているように見えます。

 ボリス・ジョンソン首相は退院後の国民へのスピーチで、NHSを絶賛する演説をしました。サッチャー以来、英保守党は「自己責任論」に立って、医療や福祉や教育への国費投入を削減し続けて来たわけですから、ジョンソン首相は自分たちが予算を削ってきたNHSに命を救われたと正直にカミングアウトしたということになります。これは、医療は市場に委ねず、公共的に管理すべきだという考え方が再び英社会の「常識」に戻って来た徴候ではないかと思います。

 日本ではこの20年間で医療を市場に委ねる動きが加速し、感染症対策予算も削られました。病院経営者が、医薬品の在庫減らしや病床稼働率の向上を積極的にめざしてきたのですから、医療資源の備蓄や病床数が削られたのは当然のことです。「正常性バイアス」がかかった眼で見れば、感染症用の薬品機材や病床はパンデミック時以外には「無駄」に見えます。だから、ぎりぎりまで削られる。そして、何年かに一度感染拡大を迎えて、「どうして備蓄がないんだ。どうして病床がないんだ」と驚く。自分たちで削ってきたことを忘れて。

 今日の日本の医療行政の混乱は、ひさしく「医療費の削減」を財政上の課題にしてきた政府が、「医療費の増大」によってしか対応できない局面に遭遇したということです。いわばアクセルを踏みながらブレーキを踏んでいるようなものですから、身動きができない。それが医療行政における「ボトルネック」の実相だと思います。

 この後、日本は再びこれまでのような「医療費削減」路線に戻すのか、次のパンデミックに備えて「医療費増大もやむなし」と腹を括るのか、それはわれわれが決めなければいけないことです。

 医療は高額商品であるのだから、金がある人間は良質の医療を受けられるが、金のない人間には医療も受ける権利がないというのがこれまでの新自由主義的な医療観でした。しかし、この思想は感染症には適用できない。

 アメリカには無保険者が2750万人いますが、「金が払えない人間には医療を受ける資格がない」という新自由主義のルールを採用すれば、貧困層での感染拡大を止められず、いずれ国民全体が壊滅的危機に向き合うことになります。住民全員が良質の医療を受けられることではじめて社会は安定的に維持できるということ、「社会が存在する」ことでしか感染症は制御できないという平明な事実をそろそろわれわれも受け入れる時だと思います。

 

■こうした非常事態においてアート(表現活動全般)は二の次だという意見があります。もしいまアートにやらなければならないことがあるとしたら、それは何だと思いますか?

 

 現実を見るにはさまざまな視点があり、ものごとの価値を考量するのにはさまざまな「ものさし」があります。それが多様であればあるほどわれわれの心身は安定し、生きていける場所(ニッチ)は増えるし、多様化する。

 ある視点から見たら絶望的な事態でも、別の視点からは転換期の徴候に見えることがあり、ある「ものさし」で計ると無価値なものが、別の「ものさし」をあてがうと宝物に見えることがある。芸術はそういう「ものの見方の多様性」を提供してくれるものです。ですから、非常時ほど、困難な時ほど、人は生き延びるために芸術が必要と思います。

 

■カミュの『ペスト』が世界中で読まれているようですが、いま読んだらいいのではないかと思われるお薦めの本があれば教えて下さい。

 

 非常時であればあるほど、頭をクールダウンして、広いタイムスパンの中で目の前の出来事を「非人情」に観察することが必要になります。そういう時は古典を読むのが一番いい。

 カミュの『ペスト』はよい選書だと思います。ここには、僕たちが今直面しているのと似たパンデミックに投じられて、「どう生きたらよいのか」を必死に探している人たちが出てきます。一人一人見出す「解」が違います。ペストをひたすら恐れるもの、ペストと戦うもの、ペストのうちに真理を求めるもの、ペストを利用しようとするもの・・・誰の生き方が正しいのか、作者は決定を下しません。それは読者が自分で考えることだからです。

 

 ダニエル・デフォーの『ペスト』は1665年にロンドン市民の6人に1人が死んだペスト禍の「実録」です。デフォー自身は当時5歳なので、おそらくはほとんどは聞き書きなのだと思いますが、絶望のあまり街路を絶叫して走る半裸の男とか、住民全員が死んで物音ひとつしない路地の不気味さとか、デフォー少年のトラウマ的経験と思われる部分も書き込まれています。

 致死率を除くと、ロンドンのペスト禍と日本のコロナ禍は実によく似ています。ロンドンから逃げ出した住民たちを田舎の住民たちが「来るな」と言って追い返す話が詳しく書かれています。事実、ロンドンからは逃れ出たものの、雨露もしのげず飢えも癒せず街道で横死した人が多く出ました。この死者たちがどれほどいたのかはわかっていませんが、彼らはペストの死者にはカウントされていません。

 県外からの車を煽ったり、車に傷をつけたりする人は、もう少し事態が悪化すれば、「死ね」というような言葉を口にできる人間だということは覚えていた方がいい。

 

 もう一つ選ぶなら鴨長明『方丈記』。嵐、火事、飢饉、洪水、疫病・・・とにかく京都の町を襲ったありとあらゆる天変地異について、長明はジャーナリスティックな関心から現地取材に赴きます。そして、しだいにある種の諦観に導かれる。無感動になるというのではなく、この世の中の出来事を人々が見ているのとは違う視点から眺め、人々が一喜一憂するのとは違う「ものさし」で人の生き死にの意味を計ろうとするのです。そうしているうちに、目の前の阿鼻叫喚の声がすっと鎮まる。

  

 

 非人情の骨法を改めて学ぼうと思うなら夏目漱石『草枕』がお薦めです。忘れてはならないのは、これが日露戦争の渦中で、日本人全体が一種のマスヒステリー状態になっていたときに書かれたものだということです。だから、漱石は「超然と出世間的に利害得失の汗を流し去った心持ち」を求めて「別乾坤」に遊ぼうとしたのです。これこそ芸術の功徳だと思います。