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内田樹さんの「「街場の親子論」のためのまえがき」(中編) ☆ あさもりのりひこ No.886

もし、「家族らしい思いやり」というものがあるとすれば、「この人は何となく『心の秘密』を隠していそうだな」と思ったら、その話は振らない、そっちには不用意に近づかないという気づかいがあってもいいんじゃないかと思うんです。

 

 

2020年6月3日の内田樹さんの論考「「街場の親子論」のためのまえがき」(中編)をご紹介する。

 どおぞ。

 

 

 以前に「アダルトチルドレン」という言葉がはやったことがありました(さいわい、もうあまり使われなくなりましたが)。親がアルコール依存症であったり、家庭内暴力をふるうような家庭に育った子どもは精神を病みがちであるという説です。それについて書かれた本を読んだら、そこに「アダルトチルドレンが発生する確率が高い家庭」の条件がいくつか挙げられていました。その一つに「家族の間に秘密がある」という項目がありました。

 僕はそれを読んで、それは違うだろうと思いました。話は逆なんじゃないかな、と。

 だって、家族の間に秘密があるなんて当たり前だからです。

 家族といえども他の人には知られたくないあれこれの思いを心の奥底に抱え込んでいる。

 僕はそうでした。

 だから、僕は子どもの頃は親や兄に、結婚した後は妻や子に、僕の「心の奥底」なんか覗かないで欲しいと思っていました。表面的に「演じている」ところだけでご勘弁頂きたい。だって、わざわざ心の奥底に隠しているわけですから、意馬心猿、社会的承認が得難いタイプの思念や感情に決まっています。別に、家族のみなさんに、それを受け入れてくれとか、承認してくれというような無理を申し上げるつもりはない。そっとしておいて欲しい。僕が求めているのはそれだけでした。

 ですから、もし、「家族らしい思いやり」というものがあるとすれば、「この人は何となく『心の秘密』を隠していそうだな」と思ったら、その話は振らない、そっちには不用意に近づかないという気づかいがあってもいいんじゃないかと思うんです。

 もちろん、運がよければ、いずれどこかで、誰かに「これ、今まで誰にも言ったことがないことなんだけど・・・」ということを告白する時が来ます。そういう話を黙って聴いてくれる人が「親友」とか「恋人」とかいうわけです。

 でも、それは一生に何度も起きることのない特権的な経験です。「親友」とだって、それから後、顔を合わせる毎にそのつど「心の秘密」を打ち明け合うわけじゃないし、「恋人」と運よく結婚した場合でも、やっぱり朝夕ちゃぶ台をはさんで「心の秘密」を語り合うわけじゃない。心の奥に秘めたことを語るというのは、例外的で、そしてとても幸福な経験であって、のべつ求めてよいものじゃない。僕はそう思います。

「家族の間でそんな他人行儀なことができますか」という反論があるのは承知しています。でも、「他人行儀」をとっぱずした結果、骨肉相食む泥仕合・・・という事例を僕はたくさん見てきました。そういう家族は例外なく「遠慮のない間柄」でした。だから、家族が罵り合う泥仕合になる前はずいぶん親しそうに見えた。お互いに遠慮なく、お互いの悪口を言う。欠点をあげつらう。容貌やふるまいについて辛辣な批評をする。それが「親しさ」の表現だと思っていた。

 でも、そういう家族はしばしば何かがきっかけになって(たいていはお金のことか、結婚のことで)崩壊した。そういうものなんです。「家族に承認されないようなお金の使い方」と「家族に承認されないような性的傾向」についてはあまり「親しく」コメントしない方がいいんです。「そうなんだ・・・そういう人なんだ・・・」と息を呑む、くらいのところでとどめておく。それが人に敬意を以て接するということです。家族に対してだって同じことだと思います。

 どんなに親しい間柄でも必ずどちらかが「何でそんなことを言うのかわからないこと」を言い出し、「何でそんなことをするのかわからないこと」をし始める。必ず。

 おとなしかった少女が、突然「もうたくさん。放っておいて」と捨て台詞を残して階段を駆け上がったり、優等生だったはずの少年が「オヤジのこと、ぶっころしてやりてえよ」と暗い目をしたり・・・そういうことって、ほんとうにいっぱいあるんです。ほぼすべての家庭でそれに類することが起きる。これは避けがたいことなんです。だから、「そういうことって、ある」という前提で話を始めた方がいい。 でも、なかなかそこまでの心の準備ができないので、そういう場面に際会すると「親しいつもりだった家族」はびっくりしてしまいます。そして、傷つく。どうして、そんなことをして自分を傷つけるのか、理由がわからない。あまりに一方的だ、ひどすぎると思う。そこでバランスを取るために、自分も相手に同じだけの傷をつける権利があり、義務があると思うようになる・・・

 怖いですね。

 でも、「そういうこと」が起きるのは、「家族はお互いに秘密を持たない方がいい」とか「家族は心の底から理解し共感し合うべきだ」という前提から話を始めたからです。前提が間違っていたんです。  もちろん、「あるべき家族」について高い理想を掲げるのはいいことです。でも、「あるべき家族」のハードルを上げ過ぎて、結果的に家族がお互いをつねに「減点法」で採点して、眉根を寄せたり、舌打ちをしたりして過ごすのは、あまりよいことではありません。それよりは、家族の合格点をわりと低めに設定しておいて、「ああ、今日も合格点がとれた。善哉善哉」と安堵するという日々を送る方が精神衛生にも身体にもよいと思います。

 

 でも、そういうことを声高に主張する人っていないんですよね。ぜんぜんいないと言って過言でないくらいに少ない。どうしてなんでしょうね。