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内田樹さんの「書評・食いつめものブルース 山田泰司」 ☆ あさもりのりひこ No.892

 長い時間をかけて、息づかいが感じられるほど取材対象の間近に迫るというスタイルは現代ジャーナリズムが失いかけているものである。このような泥臭い、けれども手堅いスタイルはジャーナリズムが決して手離してはならないものだと私は思う。

 

 

2020年6月30日の内田樹さんの論考「書評・食いつめものブルース 山田泰司」をご紹介する。

 どおぞ。

 

 

表紙の写真に違和感を覚えた。高層ビルを背景にした薄汚い街路で、犬を載せたリヤカーを引く自転車に乗っている男性の写真である。本についての紹介文を先に読んでいたので、おそらく撮影場所は上海で、写っているのは田舎から上海に出稼ぎに出てきて、「3K」仕事をしている農民工なのだろうということまでは想像がついた。背景に高層ビルを、近景に陋屋と廃品回収のリヤカーを配して社会的格差を図像化するというのはよくある構図だ。けれども、その写真にはそんな予定調和を突き崩す「何か」があった。それはその廃品回収業者の男性がたたえている独特の表情であった。

 本文を読み進むと、それがゼンカイさんという河南省から上海に出て来た出稼ぎ労働者とその愛犬の写真だとわかった。今、世界で最もバブリーで超近代的な都市の片隅で、豪奢なシティライフとはどう見ても無縁の暮らしをしているはずの廃品回収業者の表情の奇妙な明るさに私は違和感を覚えたのである。

 私たちは世界を単純な二項対立で理解したがる。都市と農村、富裕層と貧困層、強権的な政府と反抗的な市民、希望と絶望・・・現代中国社会を観察する場合でも、私たちはそのようなシンプルな二項対立を当てはめようとする。私たちの断片的な知識に基づいて想像するならば、農民工とは社会主義国中国には原理的には存在するはずのない無権利状態のプロレタリアートであり、そうである以上、彼らの表情は暗く、悲しみと絶望と階級的な怒りに領されていなければならないはずである。けれども、本文を読み進むと、私たちは彼らが特に暗くもないし、絶望してもいないし、反権力的な怒りに駆られてもいないということを教えられて混乱するのである。

 この本が描いているのはたしかに現代中国の階層格差と社会的なアンフェアである。けれども、著者はそれを「告発」しているわけではない。告発するとしたら、その資格があるのは差別と収奪の被害者である当の農民工たちでなければならない。でも、彼らは収入が減ったときには「愚痴」はこぼすけれど、それが不正な社会システムに対する「怒り」にまで昇華することはない。どうすればもっと実入りのよい仕事に就けるのかという経済的要請があまりに切迫したものなので、悲しみや怒りのような人間的感情を差しはさむ余裕がないのかも知れない。悲しんだり、怒ったりすることで飯が食えるなら、そういう感情を持ってもいいが、そんな感情を抱いても腹の足しにはならないなら、感情の出費を節約する。そういうのがあるいは農民工のリアリズムなのかも知れない。

 著者がはじめて農民工という歴史的存在を目撃したのは1980年代末のことである。広州や北京や上海のような大都市のターミナル駅の駅前広場の風景を著者はこんなふうに回想している。

「いつ通りかかっても、広場はそこに座り込む農工民たちで埋め尽くされていた。彼らの大半は仕事の当てもなく、ただとりあえず都会に出てくる。しかし、宿に泊まれるだけのカネはない。(...)だから農民工たちは仕事が見つかるまで、屋根もなく吹きさらしで冷たい石が敷き詰められた駅前広場で、抱えてきたずだ袋を枕にして何日でも寝泊りしていた。そして、広場に寝転がったり座り込んだりしているその場にいる全員がまるで打ち合わせでもしたかのように、当時流行り始めていたセットアップのスーツを着ていた。そして彼らはそのスーツ姿のまま工事現場で鶴嘴を担ぎ、スコップを地面に突き刺していた。当然、スーツはみなよれよれで薄汚れ、破れかけているものも少なくなかった。」(251-2頁)

 これが私にとっては本書中で最も印象的だった。現金収入を求めて、何の当てもなく大都会に出てきて、とりあえず駅前広場に野宿する人々の姿までなら私にも想像ができる。けれども、彼らが申し合わせたように一張羅のスーツを着込んでいるという現実は想像を絶しており、その姿のまま工事現場で働いているという現実はさらに想像を絶している。なぜ労働用の「汚れてもいい服」を用意してこなかったのかという疑問が浮かんだこと自体、私がいかに中国の農民たちの現実を知らないのかを暴露している(「パンがなければお菓子を食べればいいのに」と言ったというマリー・アントワネットの無知を私は笑うことができない)。スーツを着たホームレス労働者という矛盾した外見は「田舎から都会に出てきた彼らの張り詰めた気持ち」と「そのスーツしか着るものがほかに無い」という絶望的な貧しさを同時に表現していたのである。

 こういう場面はその場にいた者しか記憶することもないし、回想することもできない。その点では、これは「農民工とは何か」についてのまことに貴重な証言と言うべきだろう。著者はそのときの農民工の姿を通じて、中国人とは何かについての一つの深い理解を得る。

「スーツ、無表情、無言、地べたに座り込み寝転んでいる姿のすべてから彼らは、生きるためにならこだわりなく何でもする、言い換えれば、ここにこうしているしかオレたちに生きる術はないんだという気を発していた。」(252頁)

 著者はそのような「気を発する」人々を上海はじめ中国各地で取材する。けれども、これを「取材」というふうに読んでいいのかどうか、実は私にもよくわからない。一つにはそれが同一人物について長期にわたるものであるため(長いものは10年を超える)。もう一つは、しばしばインタビュイーとの関係が取材者と取材対象という関係を超えて個人的な交際になっているためである。これはどちらも現在の日本のジャーナリズムではほとんど見ることのできない取材方法である。読者によっては、対象との距離感が近すぎる、客観性に欠けると言う人がいるかも知れない。けれども、私はこの例外的に「間合いの近い」取材方法を成り立たせるために著者が費やした時間と労力を多とする。長い時間をかけて、息づかいが感じられるほど取材対象の間近に迫るというスタイルは現代ジャーナリズムが失いかけているものである。このような泥臭い、けれども手堅いスタイルはジャーナリズムが決して手離してはならないものだと私は思う。

 

 著者が現代中国の市民生活についてさらに広い範囲で取材を続けて、中国の実相を明らかにしてくれることを期待している。