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内田樹さんの「反知性主義者たちの肖像 その1」 ☆ あさもりのりひこ No.918

知性というのは個人においてではなく、集団として発動するものだと私は思っている。知性は「集合的叡智」として働くのでなければ何の意味もない。単独で存立し得るようなものを私は知性と呼ばない。

 

 

2020年9月3日の内田樹さんの論考「反知性主義者たちの肖像 その1」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

「日本の反知性主義」というタイトルはリチャード・ホーフスタッターの名著『アメリカの反知性主義』から借りた。この書物の中で、ホーフスタッターは、アメリカ社会は建国のときから現在に至るまで、知性に対する憎悪という、語られることの少ない情念を伏流させてきており、それは間歇的に噴出してそのたびに社会に深い対立と暴力を生み出してきたという大胆な知見を語った。急いで付言しなければならないが、ホーフスタッターはこれを単純な「知識人対大衆」の二元論として語ったわけではない。経験が教えてくれるのは、知識人自身がしばしば最悪の反知性主義者としてふるまうという事実である。ホーフスタッターはこう書いている。

 

「反知性主義は、思想に対して無条件の敵意をいだく人々によって創作されたものではない。まったく逆である。教育ある者にとって、もっとも有効な敵は中途半端な教育を受けた者であるのと同様に、指折りの反知性主義者は通常、思想に深くかかわっている人々であり、それもしばしば、陳腐な思想や認知されない思想にとり憑かれている。反知性主義に陥る危険のない知識人はほとんどいない。一方、ひたむきな知的情熱に欠ける反知識人もほとんどいない。」(リチャード・ホーフスタッタ-、『アメリカの反知性主義』、田村哲夫訳、みすず書房、2003年、19頁)

 

 この指摘は私たちが日本における反知性主義について考察する場合でも、つねに念頭に置いておかなければならないものである。反知性主義を駆動しているのは、単なる怠惰や無知ではなく、ほとんどの場合「ひたむきな知的情熱」だからである。

 この言葉はロラン・バルトが「無知」について述べた卓見を思い出させる。バルトによれば、無知とは知識の欠如ではなく、知識に飽和されているせいで未知のものを受け容れることができなくなった状態を言う。実感として、よくわかる。「自分はそれについてはよく知らない」と涼しく認める人は「自説に固執する」ということがない。他人の言うことをとりあえず黙って聴く。聴いて「得心がいったか」「腑に落ちたか」「気持ちが片づいた」かどうかを自分の内側をみつめて判断する。そのような身体反応を以てさしあたり理非の判断に代えることができる人を私は「知性的な人」だとみなすことにしている。その人においては知性が活発に機能しているように私には思われる。そのような人たちは単に新たな知識や情報を加算しているのではなく、自分の知的な枠組みそのものをそのつど作り替えているからである。知性とはそういう知の自己刷新のことを言うのだろうと私は思っている。個人的な定義だが、しばらくこの仮説に基づいて話を進めたい。

「反知性主義」という言葉からはその逆のものを想像すればよい。反知性主義者たちはしばしば恐ろしいほどに物知りである。一つのトピックについて、手持ちの合切袋から、自説を基礎づけるデータやエビデンスや統計数値をいくらでも取り出すことができる。けれども、それをいくら聴かされても、私たちの気持ちはあまり晴れることがないし、解放感を覚えることもない。というのは、この人はあらゆることについて正解をすでに知っているからである。正解をすでに知っている以上、彼らはことの理非の判断を私に委ねる気がない。「あなたが同意しようとしまいと、私の語ることの真理性はいささかも揺らがない」というのが反知性主義者の基本的なマナーである。「あなたの同意が得られないようであれば、もう一度勉強して出直してきます」というようなことは残念ながら反知性主義者は決して言ってくれない。彼らは「理非の判断はすでに済んでいる。あなたに代わって私がもう判断を済ませた。だから、あなたが何を考えようと、それによって私の主張することの真理性には何の影響も及ぼさない」と私たちに告げる。そして、そのような言葉は確実に「呪い」として機能し始める。というのは、そういうことを耳元でうるさく言われているうちに、こちらの生きる力がしだいに衰弱してくるからである。「あなたが何を考えようと、何をどう判断しようと、それは理非の判定に関与しない」ということは、「あなたには生きている理由がない」と言われているに等しいからである。

 私は私をそのような気分にさせる人間のことを「反知性的」と見なすことにしている。その人自身は自分のことを「知性的」であると思っているかも知れない。たぶん、思っているだろう。知識も豊かだし、自信たっぷりに語るし、反論されても少しも動じない。でも、やはり私は彼を「知性的」とは呼ばない。それは彼が知性を属人的な資質や能力だと思っているからである。だが、私はそれとは違う考え方をする。

 知性というのは個人においてではなく、集団として発動するものだと私は思っている。知性は「集合的叡智」として働くのでなければ何の意味もない。単独で存立し得るようなものを私は知性と呼ばない。