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内田樹さんの「反知性主義者たちの肖像 その8」 ☆ あさもりのりひこ No.928

自分の言っていることを信じていない人間は、自分の言っていることを信じている人間よりも、論争的な局面ではしばしば有利な立場に立つ

 

 

2020年9月3日の内田樹さんの論考「反知性主義者たちの肖像 その8」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 彼がウィーリングで歴史的な演説をしたのは1950年2月9日だが、その一月前の1月7日にマッカーシーはワシントンで三人の選挙コンサルタントたち(ひとりの神父、ひとりの大学教授、ひとりの弁護士)とディナーを取りながら次の選挙の「目玉」になりそうな政策を物色していた。コンサルタントの一人はマッカーシーに「セント・ロレンス水路」の推進はどうかと提案した。マッカーシーはそれにはとりあわず、65歳以上のものに月額100ドルの年金をばらまくのはどうかと逆提案した。コンサルタントたちは賛成しなかった。別のコンサルタントが共産主義者の勢力拡大と破壊活動を主題にするのはどうかというアイディアを出した。マッカーシーはこれに飛びついた。彼らはしばらく討議したが、その話を持ち出した神父自身がマッカーシーの興奮ぶりを警戒して、こういう問題にあまり無責任なしかたで取り組まないようにと釘を刺した。マッカーシーは慎重に取り組むと約束したが、もちろん約束は守られなかった。

 この逸話は私に「反ユダヤ主義の父」ドリュモンがユダヤ人のフランス支配の陰謀の物語を着想したときのことを思い出させる。ドリュモンはその大著の刊行まで、新聞記者としてある新聞社で働いていた(その経営者はユダヤ人であり、彼はその社で厚遇されていた)。そしてある日、ドリュモンは、フランスの政治家も官僚も財界人もメディアもすべてはユダヤ人に支配されているという「隠された真実」を発見した。その証拠に、フランスのメディアは「政官財をユダヤ人が事実上支配している」という真実を報道していない。この完璧な報道管制こそユダヤ人の支配がフランス社会の隅々まで徹底していることの動かぬ証拠である。彼自身ユダヤ人が経営している新聞社で働きながら、そのことに気づかずにいたくらいだ・・・。不思議な論法であるが(ドリュモンという人は論理的な思考がほんとうに苦手な人だった)、読者たちはそれを読んで「なるほど」と同意した。

 マッカーシーもまたある日、共産主義者たちがひそかに政府を支配し、政策を起案しているという「真実」を発見した。まさに共産主義者が政策決定に深く関与していることが、共産主義者が政策決定に深く関与しているという事実が少しも明らかにされない当の理由なのだという論法もドリュモンとよく似ている。「そうでないことを証明してみせよ」という恫喝によってマッカーシーは4年間にわたって大統領と議会ににらみを効かせ、FBIを頥使し、アメリカ社会を狂騒と混乱のうちに陥れた。

 なぜ、このような人物がこれほどの政治力を発揮しえたのか。理由の一つは彼が「政府には共産主義者が巣喰っている」という自分が喧伝している当の物語を一瞬たりとも信じたことがなかったからだと『マッカーシーズム』の著者は書いている。私もこれに同意の一票を投じる。

「本当にそう信じ、本当に気にかけていたのなら、唯面倒くさいからとか、期待したような大見出しにならなかったからという理由で、調査を放棄するようなことはしなかっただろう。かれは政治的投機者、共産主義を掘り当て、それが噴油井を上って来るのを見た試掘者だったのである。そしてその噴油井が気に入った。しかし、別のどういう噴油井でも同じように気に入ったであろう。」(同書、97頁)

 例えば、マッカーシーはCIAこそ「最悪の状態」だと述べ、そこには百人以上の共産主義者がおり、それをこの手で根絶してみせると宣言した。だが、政府部内にマッカーシーの調査員たちがCIAを土足で歩き回ることを望むものはいなかった。彼らは自分たちの身内の調査委員会の結論(「何もありませんでした」)をマッカーシーに伝えた。マッカーシーはこれ以上ことを荒立てると誰かの虎の尾を踏むリスクがあることを感じ取ったのか、「この問題はこれ以上踏み込まない」と言って調査を切り上げた。マッカーシーの告発が正しければ、CIAはそれ以後も「最悪の状態」のままだったはずであるが、そのことはマッカーシーをあまり悩ませなかった。結局のところマッカーシーのキャンペーンは最終的に何一つ成就しなかったし、調査をすると発表しながら、調査に着手しないことさえあった。

 マッカーシーのカラフルな事例が教えてくれる最も豊かな教訓の一つは、自分の言っていることを信じていない人間は、自分の言っていることを信じている人間よりも、論争的な局面ではしばしば有利な立場に立つという事実である。ふつうの人は、自分の言いたいことにまだ充分な裏付けがない場合は断定的に語るのを自制する。だから、どうしても歯切れの悪い言い方になる。そして、自分が「確信のないことを語るときの気後れ」を他人も経験するはずだと推論する。残念ながら、マッカーシーはそのような気後れとまったく無縁の人物であった。ロービアのほとんど詩的な罵倒を採録すると「マッカーシーは確かに嘘つきのチャンピオンだった。かれは思うままに嘘をついた。怖れることなく嘘をついた。白々しい嘘をつき、真実に面と向かって嘘をついた。生き生きと、大胆な想像力を用いて嘘をついた。しばしば、真実を述べるふりすらしないで嘘をついた。」(同書、71頁)

 反知性主義者には気後れというものがない。その点で、彼は論争における勝負の綾を熟知していると言ってよい。「ふつうなら気後れして言えないこと」を断定的に語る者はその場の論争に高い確率で勝利する。

 しかし、このような「短期決戦」スタイルの言論は当然ながら「手間暇をかけて裏を取る」人によってていねいに吟味されるといずれ土台から崩壊する。時間が経てば必ず崩壊する。だから、反知性主義のほんとうの敵は目の前にいる論敵ではない(彼らは目の前にいる人間のことなど、ほとんど気にしない)。彼らのほんとうの敵は時間なのである。

 時間はどのような手立てを講じようと経過する。そして、その過程で「嘘」は必ず露呈する。反知性主義者はだからある意味で「時間と戦っている」のである。それゆえ、彼らの戦術的狡知は「時間を経過させない」ことに集中することになる。

 時間を経過させないことは人間にはもちろんできない。人間にできるのは「時間が経過していないように思わせる」ことだけである。これについては経験的にかなり確かなやり方がある。それは反復である。「同じ言葉を繰り返すこと」「同じふるまいを繰り返すこと」によって時間は止まる(ように見える)。すべての反知性主義者はこの点については実に洞察力にすぐれた人類学者だと言わなければならない。彼らは太古の祭祀儀礼以来、同じリズム、同じメロディで反復される同じダンスを見せられているうちに人間は時間の感覚を失ってしまうということを熟知している。強化された反復によって、人間の時間意識は麻痺する。自然的時間は経過するのだが人間的時間は経過しない。歴史上のすべてのデマゴーグはこのことを直感的に知っていた。彼らはしばしば「雄弁」だと言われるが、その「雄弁」性は次々と新しい語彙を作り出すとか、次々と新しい概念を提出するとか、次々と新しいロジックを繰り出すというかたちでは示されない。彼らの「雄弁」性の本質を形成するのは、同一のストックフレーズの終わりなき繰り返しを「厭わない」という忍耐力なのである。

 

 ふつうの人間は同一性の反復に長くは耐えられない。同一の口調、同一のリズム、同一のピッチ、同一の身振りを繰り返すということはどこか本質的に反生命的・反時間的なふるまいだからである。同一的なものの反復は反生命的であり、反時間的である。だが、デマゴーグは反復を厭わない。むしろ反復に固執する。同じ表情、同じ言葉づかいで、同じストックフレーズを繰り返し、同じロジックを繰り返す。政治的失敗を犯した場合でさえ、その失敗をあえて二度三度と繰り返す。彼らは失敗から学習するということをしない。学習によって「変わる」とせっかく止めていた時間が動き始めてしまうからだ。彼らは同じ表情で、同じ言葉を繰り返す。それを見ているうちに、私たちはそれがいつの出来事だったのか、しだいにわからなくなってくる。一年前の出来事なのか、三年前の出来事なのか、それとも一年後の出来事なのかが識別ができなくなる。この過剰なまでの同一性への固執は彼らの知的無能を示しているのではない。むしろ、彼らの戦術的狡知の卓越性を示している。彼らは自分たちが息を吐くようについている嘘が時間の経過に耐え得ないものであることを知っている。だから、時間を止めようとするのである。