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長い時間の流れの中におのれを位置づけるために想像力を行使することへの忌避、同一的なものの反復によって時間の流れそのものを押しとどめようとする努力、それが反知性主義の本質である。
2020年9月3日の内田樹さんの論考「反知性主義者たちの肖像 その9」をご紹介する。
どおぞ。
現代に話を戻す。これまでもいろいろなところで書いてきたことの繰り返しになるが、わが国はいま「国民国家のすべての制度の株式会社化」のプロセスを進んでいる。平たく言えば、金儲けに最適化したシステムだけが生き残り、そうでないシステムは廃絶されるというルールに国民の過半が同意したのである。営利企業の活動はもちろんのこと、農林水産業のような自然の繁殖力を永続的に維持管理するための活動も、医療のような国民の健康を保持するための活動も、教育のような次世代の担い手の市民的成熟を支援するための仕組みも、すべてが経済効率だけを判定基準にして淘汰されるべきだという判断に国民の過半が同意を与えた。この趨勢を「国民国家の株式会社化」と私は呼ぶ。
株式会社のCEOは独断専行で経営政策を決定する。従業員や株主の合意を得てからはじめて経営判断を下すような経営者はいない。そのような手間暇をかけていては生き馬の目を抜くグローバル資本主義を生き残れない。ワンマン経営が推奨されるのは、経営判断の適否はただちにマーケットによって検証されることをみんな知っているからである。「マーケットは間違えない」。これはすべてのビジネスマンの信仰箇条であり、これに異を唱えるビジネスマンはいない。CEO の経営判断の適否は、タイムラグなしに、ただちに、売り上げや株価というかたちで可視化される。どれほど非民主的で独裁的なCEOであっても、経営判断が成功している限り、そのポストは安泰である。
現代の政治家たちは「株式会社のCEOのような統治者」をロールモデルにしている。そして、そのことを国民もまた当然のことのように思っている。けれども、人々は国家は株式会社のように経営することはできないという平明な事実を忘れている。政治にはビジネスにおける「マーケット」に対応するものが存在しない。
国政におけるいまここでの政策の適否は今から50年後、100年後も日本という国が存続しており、国土が保全され、国民が安らぎのうちに暮らしているかどうかによって事後的にしか検証されない。株式会社であれば、新製品がどれくらい市場に好感されたか、展開した店舗がどれくらい集客したか、ターゲットの設定がどれくらい適切であったかは、当期の売り上げや株価によってダイレクトに評点が下される。けれども、残念ながら四半期で適否が決まるような政策は国政については存在しない。いま政府が行おうとしている重要政策の適否が判明するのは、その政策が重要であればあるほど遠い未来になる。場合によっては、私たちの死後かも知れない。「政治にマーケットはない」というのはそういう意味である。採択された政策が「失敗」したとわかったときに、国民は「CEOを馘首する」というソリューションが採れない(たいていの場合、失政の張本人はとうに引退するか、死んでいる)。そのとき失政の後始末をするのは国民国家の成員たちしかいない。誰にも責任を押しつけることができない。祖先が犯した政策判断の失敗の「尻ぬぐい」はその決定に参与しなかった自分たちがするしかない。そのような「負債」の引き受けを合理化する唯一の根拠が民主制である。
誤解している人が多いが、民主制は何か「よいこと」を効率的に適切に実現するための制度ではない。そうではなくて、「わるいこと」が起きた後に、国民たちが「この災厄を引き起こすような政策決定に自分は関与していない。だから、その責任を取る立場にもない」というようなことを言えないようにするための仕組みである。政策を決定したのは国民の総意であった。それゆえ国民はその成功の果実を享受する権利があり、同時にその失政の債務を支払う義務があるという考え方を基礎づけるための擬制が民主制である。
このためには、死者もまだ生まれてこない者もフルメンバーとして含む、何百年もの寿命を持つ「国民」という想像の共同体を仮定せざるを得ない。その国民なるものが統治の主体であるという「物語」に国民が総体として信用を供与するという手続きを践まざるを得ない。
これは株式会社とは最も縁遠い共同体理解である。株式会社は短命である。今年起業された株式会社のうち50年後にまだ存続しているものはおそらく1%以下であろう。だが、別に短命であることは株式会社にとって困ったことでも恥ずかしいことでもない。起業して一年目に会社ごと身売りしてキャピタルゲインで天文学的な個人資産を手に入れた経営者は、老舗の看板を細々と100年守っている小商いの経営者より高く評価される。株式会社は「当面の勝利」以上のものを望まない。どれほどの規模の経営破綻を来しても、株券が紙くずになるのが株式会社の取りうる責任のすべてである。倒産してそれで「終わり」である。倒産した企業の社会的責任を何十年何百年も追及し続けるというようなことは誰もしない。
しかし、国家はそうはゆかない。国政の舵取りに失敗すれば、その責任はその政策決定にまったく関与しなかった世代にまで及ぶ。日本のかつての被侵略国に対する戦争責任は戦後70年を経ても追及が終わらない。「もういい加減にしろ」といくら大声でどなっても、「じゃあ、もう追及するのは止めます」と隣国の人々が言ってくれるということは絶対に起こらない。「日本人は戦争責任への反省がない。決して許すまい」という相手のネガティブな心証形成が強化されるだけである。米軍はこのままおそらく未来永劫に日本の国土に駐留し続け、広大な土地を占有し続けるだろう。北方四島もロシアが占領し続けるだろう。国家の失政の責任は無限責任だからである。「70年も経ったのだから、もういいでしょう」と言っても、相手国が「そうですね」と引き下がることはない。彼らはみな「日本に貸しがある」と思っており、その貸しは「まだ完済されていない」と思っている。彼らがいつ「完済された」と思うようになるのか。それを決めるのは先方であって、われわれではない。無限責任とは「そういうこと」である。
しかし、今の為政者たちは、政策の適否は長い時間的スパンの中で検証されるものであって、自分たちが今犯した失政の「負債」は自分たちが死んだ後、まだ生まれていない何代もの世代に引き継がれることになるというふうには考えていない。彼らは自分たちの政策が歴史的にどう検証されるかということには何の興味も持っていない。彼らが興味を持つのは「当面の政局」だけである。政治家であれば「次の選挙」である。「次の選挙」がビジネスマンにとっての「マーケット」を代用する。「マーケットは間違えない」のであれば、次の選挙で当選すれば、彼らが採択した政策の適否についての歴史的判断はすでに下ったということになる。歴史的判断は選挙によって国民がすでに下したのであるから、彼らが表舞台から退場したあと、彼らが死んだあとになって、彼らの下した政策判断がどういう結果をもたらしたか、そんなことには何の意味もない。政治家が「文句があれば次の選挙で落とせばいい」とか「みそぎは済んだ」というような言い回しを好むのは、直近の選挙結果が政策の適否を判定する最終審級であり、歴史的な審判などというものは考慮するに及ばないと彼らが本気で信じているからである。
私は先に反知性主義の際立った特徴はその「狭さ」、その無時間性にあると書いた。私がこの小論で述べようとしたことは、そこに尽くされる。長い時間の流れの中におのれを位置づけるために想像力を行使することへの忌避、同一的なものの反復によって時間の流れそのものを押しとどめようとする努力、それが反知性主義の本質である。
反知性主義者たちもまたシンプルな法則によって万象を説明し、世界を一望のうちに俯瞰したいと願う知的渇望に駆り立てられている。それがついに反知性主義に堕すのは、彼らがいまの自分のいるこの視点から「一望俯瞰すること」に固執し、自分の視点そのものを「ここではない場所」に導くために何をすべきかを問わないからである。「ここではない場所」「いまではない時間」という言葉を知らないからである。
最後にレヴィナスの『全体性と無限』の冒頭の言葉を記して筆を擱くことにする。「形而上学」というレヴィナスの言葉を「知性」に置き換えて読んで頂ければ、私の言いたいことがこのわずか二行に尽くされていることがおわかりになるだろう。
「形而上学は『ここではない場所』、『別の仕方で』、『他なるもの』に向かう。思想史の中で形而上学はさまざまな形態をまとってきたが、最も一般的なかたちとしては、形而上学は私たちにとって親しみ深いこの世界(・・・)から、私たちの棲み着いている『私の家』から、見知らぬ自己の外、ある彼方へと向かう運動として現われるのである。」(Emmanuel Lévinas, Totalité et Infini, Martinus Nijhof, 1971, p.21)