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内田樹さんの「『日本習合論』ちょっと立ち読み」(後編) ☆ あさもりのりひこ No.937

共感主義者たちは「和」をうるさく言い立てます。異論を許さず、逸脱を許さない。みんな思いを一つにしないといけない、われわれは「絆」で結ばれている「ワンチーム」なんだ、と。でも、この時に彼らがめざしている「和」なるものは、多様なものがにぎやかに混在して、自由に動き回っているうちに自然に形成される動的な「和」ではありません。そうではなくて、均質的なものが、割り当てられた設計図通りに、決められたポジションから動かず、割り振られたルーティンをこなすだけの、生命力も繁殖力も失った、死んだような「和」です。

 

 

2020年10月9日の内田樹さんの論考「『日本習合論』ちょっと立ち読み」(後編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 でも、この「おのれの分際をわきまえろ」「身の程を知れ」という恫喝は最近ほんとうによく聞くようになりました。

 小田嶋隆さんが前にツイッターで財務大臣について批判的に言及したら、「そういうことは自分が財務大臣になってから言え」という驚嘆すべきリプライがついていたことがありました。でも、こういう言い方は、たしかに近頃ほんとうによく目にします。

 僕が政治的なことについて発言した時にも「それならあなた自身が国会議員になればいいじゃないか」と絡まれたことがあります。僕の知り合いが、ある有名ユ―チューバーについて批判的なコメントをしたら、「そういうことは再生回数が同じになってから言え」と言われた。ある若手経営者について批判したら「そういうことは同じくらい稼いでから言え」と言われた。

 全部パターンが同じなんです。批判したければ、批判される対象と同じレベルにまで行け、と。だから、「権力者を批判したければ、まず自分が権力者になれ」ということになる。それはいくらなんでも没論理的ではないですか。

「現状に不満」というようなことは現状を変えることができるくらいの力がある人間にしか言う資格がない。無力な人間には、そもそも「現状に不満である」と言う権利がない。こんな言明にうっかり頷いてしまったら、もう「現状を変える」ことは永遠に不可能になります。だって、今あるシステムの内部で偉くなろうとしたら、まずシステムを受け入れ、そのルールに従い、他の人たちとの出世競争に参加して、そこで勝ち残らなければならないからです。勝ち残ることができなくて、途中で脱落すればもちろん現状は変えられない。勝ち残ってしまったら、「自分を出世させてくれたシステム」を変える必然性がなくなる。グルーチョ・マルクスのように「自分を入会させるようなクラブには入会したくない」ということが言えるのはごく例外的な人だけです。ふつうの人は「自分が偉くなれる仕組みはよい仕組みである」と考える。

「現状に不満があったら、まず現状を変えられるくらい偉くなれ」という言明は人を現状に釘付けにするためのものです。人を今いる場所に釘付けにして、身動きさせないための「必殺のウェポン」として論争で愛用されている。実に多く人たちが喜々としてその定型句を口にしている。

 こういうのは時代の「空気」を映し出しているんです。どういう「空気」かというと、「自分に割り振られたポジションにいて、そこから出るな」という圧力です。その圧力が大気圧のように日常化している。日常化しているので、圧力がかかっているということ自体が実感されない。

 共感主義者たちは「和」をうるさく言い立てます。異論を許さず、逸脱を許さない。みんな思いを一つにしないといけない、われわれは「絆」で結ばれている「ワンチーム」なんだ、と。でも、この時に彼らがめざしている「和」なるものは、多様なものがにぎやかに混在して、自由に動き回っているうちに自然に形成される動的な「和」ではありません。そうではなくて、均質的なものが、割り当てられた設計図通りに、決められたポジションから動かず、割り振られたルーティンをこなすだけの、生命力も繁殖力も失った、死んだような「和」です。

「調和すること」と「静止すること」はまったく別のことです。でも、共感主義者たちには、その違いを意図的に混同させています。今の日本社会では「動的な調和」ということは求められていません。求められているのは「割り当てられた場所から身動きしない」ことです。その「檻」を形成しているのが、粘ついた共感です。自他の粘ついた共感による癒着が、人が自由に動くことを妨げている。

 

 共感なんか、なくてもいいじゃないですか。そんなものばかり求めていると、身動きできなくなりますよ。きちんと条件を定めて、ルールを決めておけば、共感できない人、理解できない人とでも、共生し、協働することはできる。何らかの「よきもの」をこの世に送り出すことはできる。その方が粘ついた共感の檻に閉じ込められて、身動きできずいいることよりも、ずっと愉快だし、有意義だと僕は思います。でも、そのことをアナウンスする人が少ない。