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内田樹さんの「(あまり)書評を書かない理由」 ☆ あさもりのりひこ No.938

「よい書評」とは「それを読んだ書き手が、『よくぞ書いてくれた』と手の舞い足の踏むところを知らず状態になり、ねじり鉢巻きで次回作にとりかかるようになるもの」だとは考えている。

 

 

2020年10月9日の内田樹さんの論考「(あまり)書評を書かない理由」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

『現代短歌』という雑誌で「よい書評」という論題での寄稿を依頼されたので、こんなことを書いた。

 

「よい書評とは?」ということを軸にした特集に「原則として書評を書かない人間」が寄稿するのは、なんだか筋違いのような気もするけれど、せっかくだからその「筋違い」の所以について思うところを書きたい。

 私は原則的に書評をしない。「批評的立場」というものが苦手なのである。と書いておいていきなり前言撤回するのもどうかと思うが、あくまでも「原則的に」であって、著者や担当編集者から「ぜひ販促のために」と懇望された場合には書くこともある。ただし、その場合も「一応読んでみて、これなら書けそうと思ったら書きます」という条件付き。読んでみて「ほめるところ」がみつかれば書く。「ほめるところ」がみつからなければ書かない。あえて瑕疵をあげつらう書評は書かない。これが私のルールである。

 それは瑕疵をあげつらうことによって、書き手のこれからあとのアウトカムの質が向上するということを私が信じていないからである。少なくとも私はそうである。けなされると落ち込む。落ち込んだせいでその後の書き物の質が上がるということは私の場合は一度もなかった。

私はどんなジャンルのどんな書き手についても、つねに「よりよいもの」を書いてくれることを願っている。だから、私が(たまたま)批評する立場になったときに配慮するのは、どういうふうに「ほめる」と、言われた書き手がこれから先にさらに質のよいものを書き、読者たちの知性的・感性的・倫理的向上に裨益するようになるか、それだけである。私が優先的に気にかけるのは、集団的・長期的な効果であって、書き手個人や個々の作品の良否にはかかわらない。

 もちろん「このようなひどいものを二度と書くな。もう筆を折れ」と天に代わって筆誅を加えることが日本文化のためだと、刺すような評言を弄する人もいる。理屈は正しい。でも、その評言が適切なものであった場合でも、書き手が受ける傷は深い。それによって、その書き手はそれ以後ある種の主題を忌避するようになったり、ある種の文体を使えなくなり、何よりも、ある種のイノセンスを失う。

 村上春樹は『ノルウェイの森』がベストセラーになる前は、比較的限られた読者とのインティメイトな関係の中でのびのびと小説やエッセイを書いていた。高校生の頃の写真や家族の写真さえも当時はメディアにふつうに公開されていた。けれども、『ノルウェイの森』が記録的なベストセラーになったことで環境が一変した。それまで彼の本を手に取らなかった多くの読者を獲得したのと同時に、それまで彼の本を手にしたことのなかった批評家たちを呼び込むことになったからだ。どうしてここまで憎まれなければいけないのかと呆然とするほど攻撃的な批評の言葉が矢のように放たれた。作家は日本にいることができないほど精神的に追い込まれて海外に去り、長く祖国の土を踏まなかった。それからは自分について語ることに慎重になり、80年代に気楽に書き飛ばしていたタイプの軽いエッセイのようなものは書かなくなった。その後、たしかに作品は重厚さを加えたけれど、彼の30代の書き物に横溢していたイノセンスは失われて、二度と回復することがなかった。私はそれを惜しむ。私が「書評というもの」を遠ざけるようになった理由の一つは、間違いなく『ノルウェイの森』をめぐる書評にみなぎっていた「敵意」に怯えた体験にある。

 それまで私は書評というものを、書物を素材にして美的世界を遊弋するエッセイのようなものだと勝手に思っていたからである。その偏見を私に刷り込んだのは石川淳である。彼が1969年から2年間朝日新聞に連載していた「文芸時評」(のちに『文林通言』として単行本化された)を十代だった私はむさぼるように読んだ。石川の風流ががさつな少年の趣味に合ったからではない(石川淳が扱う書物や作家の過半について私は名前さえ知らなかった)。でも、石川淳の書く評言はめっぽう面白かった。たぶん行ったことのない外国の風物や習俗について書かれたもののつもりで読んでいたのだと思う。あるとき「時評」は福原麟太郎と吉川幸次郎の往復書簡『二都詩問』を取り上げた。詩の脚韻をめぐる二人のやりとりを紹介した文を読んでいるうちに、矢も楯もたまらず読みたくなった。「時評」が取り上げることがなければ、おそらく私が一生手にとることがなかった本だと思う。読者を未聞の詩境文事に案内することが書評の手柄なのだとそのとき思い込んだ。今から思うと、ずいぶん反時代的な思い込みだったが、思い込んでしまったものはしかたがない。

 だから、80年代になって、書評から夷斎先生流の文雅が消え去り、「寸鉄人を刺す」的な切れ味の鋭さばかりを競い出すようになってから、私は書評を読まないようになった(気持ちが暗くなるから)。読まないくらいだから書くはずもなく、私が媒体に頼まれて書評を書いたのはずいぶん後のことで、それは橋本治の小説『蝶の行方』についてだった(誰にも頼まれないのに学内の紀要に書評を書いたことがその前に一度ある。それは加藤典洋『敗戦後論』についてのものだった)。関西の私大に勤めるほとんど無名の仏文学者に書評の注文があった理由がわからなくて、「どうして僕に頼むんですか?」と訊いたら、編集者が正直な人で「橋本さんの書評は、誰も引き受けてくれないんです」と教えてくれた。私は『桃尻娘』以来の熱狂的な橋本ファンであり、そのことをことあるごとに揚言していたので、どこかで聞きつけたのだと思う。当然その書評は橋本治の天才性をひたすら絶賛するものとなった。批評の体をなさないものだから、もう二度と注文は来ないだろうと思っていたら、案に相違して、それから橋本治の新刊というと僕のところに回ってくるようになった。

 のちに橋本さんにはじめてお会いした時に驚くべき逸話を聴いた。『窯変源氏物語』が完結したとき、ある全国紙の学芸部の記者がインタビューに来た。その記者が橋本さんに会う前に予備知識を仕込んでおこうと思って、自社のデータベースを検索したら「橋本治」についての記事が一つもなかったのだそうである。なるほど、それでは書評の書き手が見つからないのも当然だろう。でも、系譜もわからない、依拠している文学理論も分からない、読者に伝えたいメッセージが何かもわからない作家について、その「例外性」を顕彰することの方が、「知の布置」内部にポジションがわかっている作家について切れ味のよい評語を書くより楽しいのではないかと私は思うけれど。

 

 そういうわけで、私は書評をあまり書かない。でも、「よい書評」とは「それを読んだ書き手が、『よくぞ書いてくれた』と手の舞い足の踏むところを知らず状態になり、ねじり鉢巻きで次回作にとりかかるようになるもの」だとは考えている。そういうものをいつかは書きたい。