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内田樹さんの「日本学術会議問題について」 ☆ あさもりのりひこ No.940

統治コストを減らせば国力は衰え、国力が増大すると統治コストはかさむ。そういうものです。国が衰微しても政権が安定すればよいというのは一つの選択です。「それでいい」という国民が過半ならば、仕方がない。でもそんな日本にはもういかなる意味でも未来がないことは覚悟しておいた方がいいと思います。

 

 

2020年10月22日の内田樹さんの論考「日本学術会議問題について」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

日本学術会議の新会員任命拒否に対して、多くの学会が次々と抗議の声を上げ、政府と学術団体の対立は収束する気配がありません。 

 菅政権はなぜ発足早々にこのような政治的緊急性のない事案に手を出したのか。なぜ学術団体からの激しい反発を予測できなかったのか。単に「政治センスが悪い」というのも一つの解ですが、それよりは主観的には合理的な行動のつもりだったと考えたほうが引き出せる知見は多いと思います。

 菅政権が最優先する政治課題は「統治コストの最少化」です。どうやって統治コストを最少化するか。前政権の官房長官として首相が学んだのは、反対派の異論をすべて黙殺して、国民の間に政治に対する諦めと無力感を蔓延させるという手でした。

 安全保障関連法案でも、特定秘密保護法案でも、国民の過半数が「採決を急ぐべきではない」と意思表示する中、前政権は民意を無視して強行採決しました。選挙で勝った以上、全権は与党に託されたという理屈で譲歩を拒み、結果的に政権に批判的な国民の間に無力感と政治に対するあきらめを醸成することに成功した。

 反対派が無気力になり、政治活動をしても無駄だと思うようになれば、統治コストは最少化できます。菅政権は安倍政権で学んだその経験則を適用して、「反政府的な言説をなす者はいかなる公的支援も期待できない」ということを国民に叩き込んでやろうとして、日本学術会議の人事に手を突っ込んできた。すでに与党政治家、官僚、ジャーナリストは官邸に対する忠誠度によって「格付け」されるということに慣れ切っています。次は学者たちに同じルールを適用しようとした。どうせ無抵抗にこのルールを受け入れるだろうと思っていたからです。

 学者を黙らせることについては政府には成功体験の蓄積がありました。90年代以降、日本の大学人は教育行政に押し込まれて譲歩し続け、有効な反撃ができなかった。2014年の学校教育法の改正によって、大学教授会は権限のほとんどを奪われ、大学は学長が全権を掌握する株式会社的な組織に改編されたのですが、このときも大学人たちは組織的な抵抗ができませんでした。政権はこれを見て「学者というのは腰が弱いものだ」と思った。ですから、任命拒否も日本学術会議は無抵抗に受け入れると予測していた。

 しかし、このシナリオは学者たちの予想外にはげしい抵抗に遭遇して破綻ました。そればかりか『ネイチャー』や『サイエンス』のような海外の学術誌に報道され、世界の科学者は日本の新しい指導者は自由な学問研究を弾圧する反知性主義者らしいという印象を抱くに至った。これは国際社会における日本の知的・倫理的地位を一気に引き下げたという点で取返しのつかない失策でした。

 統治コストと国力はゼロサムの関係にあります。

 盛運の国は国民が元気で、次々と新しい組織や運動が生まれますから、政府の統治コストがかさむ。歴史が教える通り、中産階級が勃興すれば、市民の権利意識が高まり、政治活動が活発になり、市民革命が起きて、旧来の非民主的な政体は崩れる。経済が成長し、文化的な発信力が高まる時は、統治コストが高騰するのです。

 日本の場合、1960~70年代の高度経済成長に「一億総中流」といわれるように中産階級が分厚くなりました。同時に市民運動、労働運動、学生運動が活性化し、革新自治体も全国にでき、政府による中枢的なコントロールに手間暇がかかるようになった。逆に言えば、市民全員が権利意識を持たず、政治参加もしない「イエスマン」ばかりの国では、統治コストが限りなくゼロに近づく。為政者にとってはたいへん統治し易いわけですが、その代償として、社会が停滞し、イノベーションも起こらず、文化的生産力も学術的発信力も衰える。

 国力が向上している「元気のいい国」では統治コストがかさみ、「元気のない国」では統治コストが安くなる。どちらを選ぶか。

 前政権で、国民が政治に無関心になると政権は安定するという教訓を学んだ新首相は、新政権では積極的に日本を「元気のない国」にする道を選びました。政界にも、官界にも、メディアにも、学界にも、どこにも権力に逆らうものがいない社会を作ろうとした。けれども、そのような社会は国力の衰微を代償にしてしか得られません。そして、日本学術会議への攻撃は「国力の向上よりも政権の安定を優先する」という判断が導いた結論でした。

「組織管理コストの最少化は《絶対善》であり、あらゆる目標に優先する」というのは現代日本を覆い尽くしている一種のカルトです。営利企業だけでなく、行政でも、医療でも、学校でも、その組織がいかなる「よきもの」を生み出すために創り出されたのかが忘れられ、代わりにその組織の管理コストをどうやって最少化するかが組織目的にすり替えられている。

「組織が当初の目的を見失って、組織防衛が自己目的化する」という倒錯はこれまでも官僚制ではよく観察されましたけれど、「組織が目的を見失って、管理コストの最少化が自己目的化する」という倒錯は私が知る限り歴史上はじめてのものです。バブル崩壊以後、新しい価値を生み出す力がなくなった組織はどこも「どうやって管理コストを削減するか」を考える部門が中枢を占めて、あらゆる政策決定を仕切るようになった。

 本来は話が反対なんです。どういう「よきもの」をこの世にもたらし来すためにこの組織は作られたのか、それが組織について考えるときの原点です。その次に、メンバーが路頭に迷わないようにどうやって組織を守るかを考える。そこからさまざまな創意工夫や冒険的なイノベーションが生まれる。でも、いまの日本の組織はどこも「管理コスト削減原理主義」という病に罹患しています。その結果、組織が負託された使命を果たせないほどに痩せ細ってしまった。あらゆる組織が上意下達の「効率的な」組織に改変され、メンバーはイエスマンであることを優先的に求められ、そうやって「暴君とイエスマン」だけで構成される組織ばかりになった。もちろん、そんな組織からは新しいものはもう何も生まれないし、そもそも存続することさえおぼつかない。

「日本学術会議のことなんか象牙の塔の問題だ」とメディアも市民も「対岸の火事」として眺めているようですが、いまの学者たちの抵抗は日本社会が「イエスマン以外には居場所がない」ものになってゆく流れに対するぎりぎりの防衛線です。これを座視していれば、遠からず日本は、上位者に対する忠誠度だけを「ものさし」にして全員が格付けされる「おべんちゃら社会」になり果てるでしょう。

 学者がエビデンスや論理を軽んじて、ときの政権におもねるような研究結果を出し始めたら、もう日本の学術は終わりです。それは単に象牙の塔の威信が失われるというだけでなく、日本発のあらゆる情報に対する国際的な信頼性が損なわれるということです。

 

 統治コストを減らせば国力は衰え、国力が増大すると統治コストはかさむ。そういうものです。国が衰微しても政権が安定すればよいというのは一つの選択です。「それでいい」という国民が過半ならば、仕方がない。でもそんな日本にはもういかなる意味でも未来がないことは覚悟しておいた方がいいと思います。