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内田樹さんの「アメリカの新しい論調から「ベーシックインカムについて」」 ☆ あさもりのりひこ No.948

竹中平蔵が「一人7万円くばって、すべての社会保障制度を廃止する」とぶち上げたのはBIでもなんでもない。ただの棄民政策である。術語は厳密に使わねばならない。

 

2020年11月18日の内田樹さんの論考「アメリカの新しい論調から「ベーシックインカムについて」」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

Foreign Affairs Report を定期購読している。アメリカの本家のForeign Affairs の主要記事を和訳してくれたもので、雑誌の性格上、ホワイトハウスの政策決定過程に関与している、あるいはしたことのある人の寄稿が多いので、アメリカが今何を問題にしているのかを知る上ではたいへん貴重な情報源である。でも、「おう、俺も読んでるぜ」という人に会ったことがない。どうしてなんだろう。ほんとに貴重な情報源なんだけど。

ともかく、その2020年11月号に、日本人もよく読んでおいた方がいいと思われる記事があった。情報を共有しておきたいと思う。

それはカナダの学者のベーシックインカム(BI)論である。

2020年の大統領選の民主党候補に立候補したアンドリュー・ヤンはすべてのアメリカの成人に月額1000ドルを給付するというBIのアイディアを提示した。残念ながら、まったく支持が広がらず、2月のニューハンプシャーの予備選で撤退した。しかし、3月にアメリカでパンデミックが広がると事態が一変した。共和党のロムニー上院議員は一回限りの支給だが、全員に1000ドル給付を提案した。実際にアメリカ政府は所得条件をつけて、最大1200ドルの一時給付、失業者には毎週600ドル給付することを決定した。

ふだんのアメリカなら「自助」である。失業したのも病気に罹るのも自己責任である。公的支援を求めることは許されないというリバタリアン的な発想が主流である。

けれども、今度はあまりに短期間にあまりに大量の失業者が出現したのである。自己責任で放置するには多すぎた。そして、既存の社会福祉プログラムではこれに対応できなかった。

理由の一つは彼らの多くがパートタイマーや自営業やギグワーカーで社会保障の受給条件を満たさなかったこと。もう一つは給付レベルが低すぎて、そんなものをもらっても生活できなかったこと。もう一つは支給条件の検査が面倒すぎること。支給するまでにさまざまな条件をクリアし、ケースワーカーとの定期的な面談を義務づけると、もうシステムが押し寄せる受給希望者に対応できない。

だから、受給条件を緩和し、給付レベルを上げて、申請プロセスを大胆に簡略化した。「申請すれば支給される」というシステムの信頼性を高めたのである。これはBIにアイディアとしては近い。

その経験を踏まえて著者(Evelyne L. Forget)はこう述べる。

BIは単なるお金だが、それは他の所得支援プログラムと比べて大きなメリットがある。政府がやるべきことは、お金を口座に送金するだけだ。これは、現在実施されている複雑で官僚的なシステムの多くよりも、はるかに効率的な支援方法だ。」(「ベーシックインカムの台頭-パンデミックが呼び起こした構想」、FAR, 2020, No.11, p.21

もう一つ大きなメリットがある。「誰が何を必要とするかを深く考える必要がないことだ。」(Ibid.

アメリカにはフードスタンプ制度があるけれど、これは栄養支援なので、食物以外に使えない。酒もたばこも買えない。「好きにさせると人は悪い決断を下す」という人間観が制度設計の前提になっている。

「だが、BIでは、概して貧困の原因はお金がないことで、政府はこの問題を解決し、それをどのように使うかは市民に委ねるべきだと考えられている。」(Ibid,)

その論拠として著者はカナダのBI事例を挙げる。

カナダのマニトバ州では1975年から78年までBIを実施した。その結果わかったこと。

病院の受診者が減った(主にメンタルヘルスのカウンセリングが減ったため。鬱病、睡眠障害などを訴える患者数が減った)。犯罪発生率が減った。就職する人の数が増えた。

BI反対論者は「BIを支給されると就労意欲が減殺する」と主張しているが、これはBIについては当たっていなかった。

その中で、就労者が減った社会集団が二つあった。一つは第一子を出産した女性たち(彼女たちはBIを利用して産休を延長した)。一つはティーンエイジャーの若者たち(高校を中退して就労するのを止めて、ハイスクール卒業資格を得るまで学校にとどまった)いずれも長期的にはBI利用者の生活のクオリティを高める効果があった。

フィンランドとオランダの実験では、通常の社会保障プログラムに従い、職探しをし、職業訓練を受け、ケースワーカーと定期的に面談する集団よりも、BIを支給しただけで放っておいた集団の方がフルタイムの仕事を見つける率が高かった。

「研究者たちは、官僚的な条件を強要しなければ、より良い仕事を探す時間が増えると結論づけた。」(p.23)

BIの最大の難点は莫大な金がかかることである(アメリカの場合、BIの実施に必要な金額は3兆ドル。年間予算の6分の1に達する)。

「しかし、BIを支出とみなすのは、間違っている。それは、人々が望む社会への投資であり、健康、教育、安全を重視する人がそれぞれに投資する。(...)BIは、メディケアのような他のプログラム、貧困層の医療ケアの責任を負ってきたプログラムの負担を軽くする。病気になるまで待って貧しい人に治療費を払うよりも、自分の世話をできるように、事前にお金を与える方がいい。」(p.24)

費用対効果を考えると、既存のプログラムよりもBIの方がすぐれていると著者は結論している。もちろんBIは公共サービスの代行をするわけではない。障害や依存症を抱えている人たちにはBI以外に特別の支援が要るし、医療と教育についての支援は全国民が享受する権利があると著者は述べている。

 

これくらいの基本的な了解の上に議論が始まっている。竹中平蔵が「一人7万円くばって、すべての社会保障制度を廃止する」とぶち上げたのはBIでもなんでもない。ただの棄民政策である。術語は厳密に使わねばならない。