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内田樹さんの「日本のスキー文化の晩鐘」 ☆ あさもりのりひこ No.978

そんな時代には、上位者におもねり、指示があるまで自己判断では動かない「イエスマン」には用がない。国難の時代には、そんなものはいても何の役にも立たない。必要なのは、自分が何をなすべきかを誰にも命令されなくても判断でき、自分がなしたことの意味や価値について他人の査定を求めることをしない自律的な青年である。

 

 

2021年2月15日の内田樹さんの論考「日本のスキー文化の晩鐘」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

ご縁を得て、ある時期から毎冬白馬村にスキーに行くようになった。先日二年ぶりに八方尾根を滑って、人があまりに少ないのに驚いた。コロナ以前は外国人のスキーヤー、ボーダーが多かったけれど、コロナで渡航が途絶えて、彼らがいなくなってしまったのである。

 二年前までは講師も生徒も英語ベースというスキー学校があった。リフト待ちのときにふと気が付くと英語やフランス語を話す人たちに囲まれた。リフトに乗り合わせた人と「どこからいらしたんですか?」「オーストラリアです」というような会話をすることが当たり前になっていた。それも当然だと思う。日本人のスキー人口はしだいに高齢化しつつあるし、実数も減っているからである。バブル全盛期、若い人たちが真新しいウェアに身を包んで「芋を洗うように」ひしめいていたゲレンデ風景のことを思うと隔世の感がある。インバウンドのビジターたちのおかげで日本のスキー場が経済的に存立できることは素直に喜びたいと思う。それでも日本のスキー文化が消えることには一抹の寂しさを感じる。

 明治末年に歩兵の雪上行動技術として紹介されてから100年を超えたスキーはヨーロッパからの輸入文化だった。私たちの世代では最初に覚えたドイツ語がスキー用語だったという人が多いと思う。ゲレンデもシュプールもボーゲンも「シーハイル」もドイツ語だった。そのせいもあって、スキーにはどこかしら旧制高校的なモダニティが付随していた。それは言い換えると、「大正デモクラシー的」なということでもある。

 日本近代史のある時期に「青年」たちが文化の担い手であり、彼らが(主観的には)その双肩に国運を背負っていたことがある。維新から40年後、日露戦争後にようやく帝国主義列強に伍す立場に這い上がった極東の小国では、青年たちの自己陶冶の努力は直接に国力の向上に相関していた。少なくとも本人たちはそう信じてもいた。今とは時代が違う。自分が努力した分だけ国力が向上し、自分が怠けたらその分だけ国運が翳る。そう信じていた青年たちがいた。大戦間期の日本はそういう青年の登場を切望していたはずである。そんな時代には、上位者におもねり、指示があるまで自己判断では動かない「イエスマン」には用がない。国難の時代には、そんなものはいても何の役にも立たない。必要なのは、自分が何をなすべきかを誰にも命令されなくても判断でき、自分がなしたことの意味や価値について他人の査定を求めることをしない自律的な青年である。「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張」というのは勝海舟の言葉だが、そのような覚悟を内面化した青年が「国家須要の人材」とされた時代がかつてあった。

 一高の校長で大正デモクラシーの主導者でもあった新渡戸稲造は学生たちの自治と自律を重んじた。だが、法外な自由を手にした学生たちはしばしば驕り、教師に抵抗し、ルールを破り、暴走した。彼らを律するのに新渡戸が苦肉の策として採用したのが「武士道」だった。どれほど矯激な言動をなす学生たちも、新渡戸が「君たちはそれでも武士か」と一喝すると粛然と襟を正したという。

 

 スキーはそういう時代の青年たちに選好されたスポーツだった。切り立つバーンに最初に踏み出す時の「覚悟」はあるいは武道修業や滝行や禊祓いの荒行に通じるものだったのかも知れない。ともあれ、日本のスキー文化には1960年代まではその残存臭気が残っていた。それはヨーロッパ文化の雅趣と大正デモクラシーの自律と武士道的緊張の混じり合った、ほんとうに独特のものだったと思う。その日本のスキー文化もおそらくもうすぐ消える。私たちはそれを回顧できる最後の世代になった。