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内田樹さんの「コロナが学校教育に問いかけたこと」 ☆ あさもりのりひこ No.981

学校にとって、学校に通う子どもたちにとって何が一番たいせつなのか。それはそこにいるだけで、社会から認知され、必要とされているということを実感できるという経験ではないのか。自分はこの集団のフルメンバーであるという自尊感情を抱けるということではないのか。

 

 

2021年2月21日の内田樹さんの論考「コロナが学校教育に問いかけたこと」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

感染がまだ収束していない段階で、「ポストコロナ期に社会はどう変わるか」を問うのはいささか前のめりの気もする。でも、そういう未来予測を行うことはたいせつなことだと私は思っている。いまの時点で「予兆」として見えて来たもののうちいくつかはのちに現実化し、いくつかはそのまま立ち消えになる。何かは実現し、何かは実現しない。「起きてもよいはずのこと」のうちいくつかは起こらない。なぜ「起きてもよいこと」は起こらなかったのか、それを思量することは私たちの社会の基盤をかたちづくっている「不可視の構造」を手探りするためには有効な作業だと私は思う。

 歴史家は「起きたこと」について「それはなぜ起きたか」を説明してくれるが、「起きてもよかったのに起きなかったこと」については何も教えてくれない。歴史家の仕事ではないからよいのだが、私は気になる。いまコロナ感染爆発の渦中にあって、いくつかの社会的変化の予兆が見えている。よい予兆もあるし、悪い予兆もある。ここでそれがどうなるか予測してみたい。だから、私がこれから書く文章はできたらコロナ収束後、あと一年か二年あとに読んだ方が面白いかも知れない。

 よい予兆はいくつかの制度が「弱者ベース」で設計され直され始めたということである。きっかけは大学の授業が2020年の4月からオンライン化されたことだった。

 

 ほとんどの大学はオンライン授業の経験がなかった。だから、準備はたいへんだったと思う。少なからぬ教員は「大学の授業は対面で行うべきものだ。『師の謦咳に接する』ことなしに教育が成り立つのか」という深い疑念を抱いていた。それでも、なんとか4月から授業が手探りで始まった。最初はサーバーが落ちたり、音声が消えたり、テクニカルな失敗があったが、数週間でそういうトラブルはだいたい収まった。そして二月ほど経ったところで教員たちはある変化に気がついた。それは脱落する学生が少ないということである。

 これまでだと5月の連休明けくらいで、授業についていけない、授業に興味がもてないという学生が脱落する。科目によっては履修者の30%が姿を消す。それがオンライン授業では激減した。それについて大学教員たちから興味深い話を聴いた。

 これまで大学というのは「学生が主体的に学ぶ場」だとされてきた。事実はどうあれ、建前はそうだった。だから、積極的に学ぶ意志を持たない学生に、教員側が「手を差し伸べる」ということはしなかった。不登校や学業不振の学生をケアするのは「学生相談室」とか「心理相談室」の仕事であって、教員が何十人、何百人いる履修者の出欠を気にすることはなかった。ところがオンラインになると、欠席者に配布物を送ったり、来週までの課題を伝えることができるようになった。「質問があればメールでどうぞ」というメッセージを送ることができるようになった。すると、欠席者が次の週には来るようになった。それで分かったのだが、彼らが授業を聴く意欲を失ったのは、「教員に個体識別されていない」ということが一因だったのである。自分が教室にいてもいなくても、それによって何も変わらない。その存在感の希薄さ、自己評価の低さが彼らの学習意欲を殺いでいたのである。だから、教員から(オンラインであれ)固有名で名前を呼びかけられたことで、ささやかながら社会的承認を得て、少しだけ救われたのである。その結果、前期が終わった時点で、定期試験を受けたり、課題を提出したりした学生の数は前年度を上回ることになり、平均点も上がったと聞いた。

 オンライン授業がこんなふうに成功するとは思わなかったという驚きの声を聴いて、私はむしろこれまで私たち大学教員がどれほど学生たちに対して「無慈悲」に接してきたのかを思い知ることになった。たしかに大教室の授業の場合、教員は学生を固有名で認知していないし、よほど積極的な学生でない限り、廊下で教員に声をかけたり、オフィスアワーに研究室のドアを叩いて質問に来るというようなことはしない。だから、ある程度基礎学力があり、授業にそれなりに興味もありながら、いま一つ意欲が足りないという学生はわずかなきっかけで授業に来なくなるのだが、そういう学生を授業に「呼び戻す」ための装置を大学は持っていなかったのである。

 大学は「学習強者ベース」で制度設計されていた。「学習強者」は自分の興味に従って科目を選び、研究室を訪ねて質問をし、大学が無償で提供しているさまざまな教育資源を活用できる。もちろん、それが高等教育ということなのだ。だが、自信のなさやわずかな気後れで、「そういうこと」がどうしてもできない「学習弱者」である学生もいる。そして、その方が多数派なのである。私たちは彼らのことを大学のフルメンバーとして遇してはこなかったのである。

 学校には「学習弱者」のための学習トラックも必要だ。そのことを感染症に強制されたオンライン授業で多くの大学教員が気づいた。もちろん、これまで通り「学習強者」がアカデミアを最大限に活用できる仕組みは変わらないにしても、「学習弱者」を「呼び戻す」仕組みを標準装備することに多くの大学はこれから取り組むだろう。対面授業ができず、友だちができず、クラブ活動も休止を余儀なくされて、大学教育はこの1年間で大きな痛手を負ったけれど、そこから学んだこともあった。

 その一方で高校生は自殺が増えた。そうかも知れないと思う。コロナのせいで、高校生にとっての「楽しいこと」は全部なくなった。修学旅行も文化祭も運動会も部活もなくなった。さらに全国一斉休校の余波で、彼らはその後「詰め込み授業」を強いられている。7限まで授業をしないと学習指導要領の要求を満たせない。生徒たちが授業内容を理解しているかどうかよりも終わらせることの方が優先する。授業が理解できない生徒たちを個別的にケアするだけの余力は疲れ切った教員たちにもない。そうやって落ちこぼれた生徒たちは教室にいる理由を見失う。それが自殺が増えたことの一因ではないかという話を高校の現場の教員から聴いた。厚労省は高校生の自殺増加の主因を「進路の悩み・学業不振」としているが、それではあまりに説明が足りないのではないか。

 高校と大学で事態が逆転しているように私には見える。学校にとって、学校に通う子どもたちにとって何が一番たいせつなのか。それはそこにいるだけで、社会から認知され、必要とされているということを実感できるという経験ではないのか。自分はこの集団のフルメンバーであるという自尊感情を抱けるということではないのか。

 

 コロナを奇貨として学校教育についてもう一度根源的に考え直すことを私たちは求められていると思う。