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内田樹さんの「「予言書」としての『1984』」(中編) ☆ あさもりのりひこ No.999

身も蓋もない言い方をすると、日本の『1984』化は、統治者も国民も、日本人全体が集団的に「幼児化」「愚鈍化」したことの帰結だと思います。

 

 

2021年4月27日の内田樹さんの論考「「予言書」としての『1984』」(中編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

― 『1984』では独裁政権が人々の精神を支配するために「戦争は平和なり」というスローガンを掲げたり、真実を改ざんする役所を「真理省」と名付けたりして「言語の破壊」に取り組みます。作中では、既存の言語を破壊して「ニュースピーク」という新しい言語まで開発されます。

 

内田 安倍・菅政権も「ニュースピーク」の運用能力は『1984』といい勝負だと思います。戦争ができるようにする法律のことを「平和安全法制」と呼び、オスプレイの墜落を「不時着」と言い換え、「募っているが、募集はしていない」とか「政治責任の定義はない」とか...安倍・菅二代の政権下で、政治家の語る言語はひたすら軽く、薄く、無意味になった。でも、メディアはこの「ニュースピーク」をそのままに無批判に垂れ流している。国民も政治家の「ニュースピーク」をどんどん真似始めている。「個別の事案についてはお答えを差し控える」とか「仮定の質問には答えられない」とかいう定型句を子どもまでが真似するようになったら、どうするんです。

 

― コロナ以後、政府の側からも国民の側からも国家統制を強化すべきだという主張が出されていますが、日本が『1984』のような管理国家になる可能性はありますか。

 

内田 日本が『1984』的な管理国家になる可能性は低いと思います。政府があまりに無能だからです。これまで日本政府はIT関連ではほぼすべての制度設計に失敗しています。マイナンバーで国民の個人情報を管理しようとしましたが、コロナ接触確認アプリ「COCOA」程度のシンプルな仕組みさえ運用できない政府が、そんな複雑な仕組みを運用できるはずがない。

 仮に国民監視システムを作ろうとしても、どうせパソナか電通に丸投げして、そこが中抜きしてどこかに再委託して、そこがまた中抜きして...ということを繰り返して、最終的にはどこかの小さな下請け会社で時給1500円のバイトの兄ちゃんが納期に追われて徹夜続きで作ったバグだらけの国民監視システムを納品する...ということになると思います。

 それより日本が監視社会になるとしたら、昔と同じように「隣組」からの密告に頼るシステムを作ると思います。隣人の私生活を覗き見して、「お上」に訴え出るという市民の相互監視が一番管理コストが安く上がりますし、「横並び」が大好きな日本人向きですから。

 

― そもそも、なぜ世界的に『1984』化が進んでいるのでしょうか。

 

内田 国によって事情は異なると思います。『1984』のモデルはスターリンのソ連ですが、スターリンは彼が倒したロシア皇帝の統治スタイルを模倣していたし、プーチンはそのスターリンの統治を模倣している。中国やトルコもそうです。かつて「帝国」だった国々では、表向きの政体が変わっても、独裁的な指導者が強権をふるうという基本のスタイルに変化はない。習近平、プーチン、エルドアンはそれぞれの国の「ビッグブラザー」です。

 欧米の民主主義国家には「ビッグ・ブラザー」はいませんが、それでも『1984』化は進行している。それは「ポストモダンの頽廃」(ミチコ・カクタニ)という欧米独自の文脈から出てきた現象だと僕は思っています。

 西欧は、世界全体の構造を説明できる「大きな物語」を求めてきました。一神教信仰からニュートン力学まで、どのような理説も「ランダムに見える現象の背後には数理的な秩序が存在する」という直観に導かれてきました。それを「摂理」と呼ぼうが、「絶対精神」と呼ぼうが、「歴史を貫く鉄の法則性」と呼ぼうが、どれも起源から未来まで全歴史を「聖なる天蓋」(ピーター・バーガー)が覆い尽くしており、われわれはその天蓋の下から外には出られないのだけれど、その保護の下で安らいでもいられる。それに逆らうにせよ、その恩沢に浴するにせよ、この宇宙を秩序づけている「巨大なもの」、それを精神分析は「父」と呼びました。

 でも、ポストモダニストたちは、この「大きな物語」を否定した。「直線的な物語としての歴史」をわらうべき民族誌的偏見として、歴史のゴミ箱に放り込んだのです。われわれの眼に客観的現実として見えている世界は実は主観的バイアスで歪めれた世界像に過ぎないというポストモダンの知見は非常に刺激的なものでした。ポストモダニストは「自分が見ているものの真正性を懐疑せよ」というきびしい知的緊張を僕たちに要求しました。

 その要求そのものは正当なものだったと思います。でも、人間はあまり長期にわたって知的緊張に耐えることはできない。どこかで忍耐力の限界が来る。ポストモダンの緊張に耐えきれなくなった人たちはやがて雪崩打つように「反知性主義者」の群れをかたちづくることになりました。彼らはこんなふうに考えたのです。

(1)人間の行うすべての認識は階級や性差や人種や宗教のバイアスがかかっている(これは正しい)。

(2)人間の知覚から独立して存在する客観的実在などは存在しない(まあ、そうとも言える)。

(3)だから、われわれの抱く世界観はすべて主観的妄想であり、その点で等価である(それは言い過ぎ)。

(4)ゆえに、万人は「客観的実在」のことなど気にかけず、自分のお気に入りの妄想のうちに安らぐ権利がある(これは間違い)。

「ディープ・ステート」とかQアノンとかいう陰謀論が行き交ういまの「ポスト・トゥルースの世界」とは(4)のテーゼが支配的になった世界です。

 でも、この反知性主義的な世界観はいきなり出現したわけではありません。それなりの歴史的必然性があった。「大きな物語」を否定してしまった以上、「小さな物語」への分裂が帰結することは、実際には十分予想できたはずです。

 80年代~90年代に大学の授業でデリダとかリオタールとか読まされて「なんだかむずかしくてよくわからん」と思っていた連中が、自分たちでもわかるようにポストモダンの哲学をダウングレードしてみせたのが「ポスト・トゥルース」だったというわけです。

 

― それでは、日本の『1984』化はどこから出てきたのですか。

 

内田 日本にもディストピアはたしかに実現してしまったわけですけれども、中国やロシアのような「帝国」の伝統から由来するものでもないし、欧米のように「ポストモダン」から由来するものでもありません。身も蓋もない言い方をすると、日本の『1984』化は、統治者も国民も、日本人全体が集団的に「幼児化」「愚鈍化」したことの帰結だと思います。「ビッグブラザー」が作為をもって制度設計したのではなく、日本では『1984』的社会がいわば自然発生した。

 幼児は「単純接触」する者に親しみを感じ、「現在」という狭い時間意識の中に閉じ込められている。過去のことは覚えていないし、未来のことは考えられない。これは現代日本人そのものです。問題は、なぜ日本人はここまで「幼児化」「愚鈍化」したのかです。原因はやはり戦後の日米関係にあると思います。