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内田樹さんの「『街場の芸術論』序文」 ☆ あさもりのりひこ No.1007

何かをほんとうに好きになるためには、偶然に出会ったという条件が必要なんです。偶然目が合ったのだけれど、それが後から思うと宿命的な出会いだった...という「物語」がたいせつなんです。

 

 

2021年5月3日の内田樹さんの論考「『街場の芸術論』序文」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

もうすぐ青幻舎という出版社から『街場の芸術論』というコンピレーション本が出る。その「まえがき」を採録しておく。

 

 みなさん、こんにちは。内田樹です。

 今回は『街場の芸術論』です。「ありもの」を編集してもらったものです。「芸術論」という括りでこれまで書いたものを集めて、一冊の本を編むというのは編集の吉田遊介さんのアイディアです。これまで文学論、映画論というジャンルでは何冊か本を出しましたが、「芸術」というような大枠で本を作るのははじめてのことです。「こんなタイプの原稿がまだほかにもありますか」と訊かれて、僕もハードディスクの底をサルベージして、いくつか旧稿を拾い集めて送りましたけれども、おおかたは吉田さんが自分の感覚で集めたくれたものです。

 おかげで、単行本未収録の書き物をいくつか拾ってもらいました。とくに音楽について書いたものはどれもあまり発行部数の多くない媒体に寄稿したものですので、書籍のかたちでこうして残すことができたことをとても感謝しています。

 単行本というのは書き手が「素材」を提供し、編集者がそれを「料理」するという共同作業です。食材がいくらたっぷりあっても、料理人が手際よく切り捌いて、煮炊きしてくれないと、土や皮のついたままでは食卓には出せません。本書を構成するテクストの選択も配列も僕ではたぶん絶対に思いつかないものでした。オリジナルな「料理」を創作してくれたことについてまず編集の吉田さんに御礼を申し上げます。どうもありがとうございました。

 

 本書は表現の自由、言論の自由というわりと原理的な(硬い)話から始まって、文学、映画、アニメとだんだん話柄が柔らかくなってきて、最後にポップスについてのかなりパーソナルなエッセイで終わるという結構です。「外殻は煎餅で、そのあとカステラとあんこが続いて、中心部はホイップクリーム」みたいなつくりです。ですから、読者のみなさんは、ご自身の嗜好に合わせて、好きなところから読み始めてくださって結構です。

 本書に登場するのは、固有名詞を挙げれば、小津安二郎、宮崎駿、三島由紀夫、村上春樹、大瀧詠一、キャロル・キング、ビートルズ、ビーチボーイズといった方たちです。映画作家、小説家、ミュージシャンとジャンルは多岐にわたります。共通しているのは、僕が個人的に偏愛している人たちだということです。

 僕が彼らを論じるときの立ち位置は、学者でも、批評家でもありません。あくまでも一ファンとしてです。

 一ファンとしてそっと読者の前に差し出すというのが僕のスタンスです。

 高校生のときに、「これ。貸してやるから、聴いてみろよ。なかなかいいぞ」と鞄の中から新譜のレコード盤を取り出してくれるような友人がきっといたと思いますけれど(もうアナログのレコード盤があまり目に触れない時代に育った方も「そういう時代」の高校生の様子を想像してみてください)、あれに近いです。

 そういうときのファンの口立てって独特なんですよね。とにかく、相手を「その気」にさせないといけない。でも、あまり押しつけがましくてもいけない。押しつけ過ぎるとかえって逆効果になるから。推すけれども、無理押ししないというさじ加減がむずかしいのです。あまり強く薦めてしまうと、その作品との出会いが誰かにコントロールされたもので、偶然に出会ったという気分にならないからです。何かをほんとうに好きになるためには、偶然に出会ったという条件が必要なんです。偶然目が合ったのだけれど、それが後から思うと宿命的な出会いだった...という「物語」がたいせつなんです。

 本はそうですよね。書店で書棚の間をぼんやり歩いているときに、一冊の本と「目が合う」。タイトルの音韻であったり、装丁の色使いであったり、コンテンツとは無関係なところに何かしら惹きつけられるものがあって手に取る。著者の名前も知らないそのその本をぱらりとめくってみたら、いきなり著者の息遣いが間近に感じられて、ふらふらとレジまで持ってゆく。だいたい、書物との宿命的な出会いってそういう感じですよね。

 新聞の書評が絶賛していたからとか、友だちに強く薦められて読んだという場合、それは「自分がみつけた本」とは言えません。「たまたま目が合った」のじゃないと、「宿命的な出会い」だとはなかなか思えない。

 僕は自分が大好きなものを人に薦めたい。でも、かなうことなら、それとの出会いをその人にとっても「宿命的」なものとして経験して欲しい。「ウチダにうるさく薦められたからなあ」という印象が残ってしまってはダメなんです。それだと、その人のall time best リストには入らない。そこには「自分でみつけたもの」しか入れないからです。それでは僕は困る。

 ファンというのは「ファンを増やすことをその主務とする人」のことです。これは僕の個人的な定義です。でも、これ、なかなか使い勝手のよい定義だと思います。ファンとはファンを増やすことを主務とする人である。とすると、ファンの一番たいせつな仕事は、できるだけ多くの人に「これは宿命的な出会いだ」と思って頂けるように、そっとプレゼンテーションをすることだということになる。

 この「そっと差し出す」というのがなかなかむずかしいんです。

「押しつけがましいのはダメ」と上に書きましたけれど、「あまりつんけんしているのもダメ」なんです。ときどき熱烈なファンでありながら、「この作家・作品の真価を理解できる者はこの世にほとんどいないであろう。いなくてもよい。私が死んだら、私といっしょにこの作品の理解者が世界から消える。それでよいのだ。凡愚の徒にはこの良さがついにわからぬのだ...」というようなことを口走る悲観的(でかつ態度のでかい)人がいますけれど、僕はそういうのはどうかなと思います。

 できることなら自分が死んだ後も、その作品の真価を伝道し続けてくれる後継者を絶やさないように心掛けるのがほんとうの「ファン」ではないか。とりあえず僕はそう考えています。

 ですから、この本を読んで、これらのクリエーターたちの名前をはじめて知ったという人が「そこまで言うなら、ちょっと読んで(観て/聴いて)みようかな」と思ってくれるたら、それだけでこの本を出した甲斐はあったと思います。

 

 2021年5月