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内田樹さんの「人間性を基礎づけるのは弱さである」 ☆ あさもりのりひこ No.1015

『ジュラシック・パーク』でマルコム博士(ジェフ・ゴールドブラム)はDNA操作で創られた恐竜たちがもしほんとうに生命体であるなら、いずれ思いがけない仕方で人間の制御を逃れるだろうと不吉な予言をする。その時マルコム博士がつぶやく言葉が「生命は道を見つける(Life finds a way)」である。

 

 

2021年6月1日の内田樹さんの論考「人間性を基礎づけるのは弱さである」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

今から10年前にラジオ収録のために、イデオロギーと生活感覚の癒合と乖離について平川君と彼の久が原の家でおしゃべりをしたことがあった。その時に備忘のために記した文章が『武道論』に再録された。少し短くしたものを「予告編」としてここにあげておく。

 

 空理空論のイデオロギーは危険なものである。だから、それを制御するものとして、身体があり、日常の生活がある。

「百日の説教、屁一つ」と言う。いくら大義名分を掲げて偉そうなことを言っても、それを語っている当の本人の身体が語っている言葉を裏打ちしていないと言葉は力を失う。どれほど立派な口説も「ここがロドスだ、ここで跳べ」という地場からの挑発には対抗できない。「それだけ言うなら、ここでやってみせて見せろ」という言葉が空理空論には一番強い。

 身体実感のある言葉を語っているかどうか、それは久しく知的言説に対する日本の庶人の身にしみた批評的規矩であった。平川くんも、高橋源一郎さんも、橋本治さんも、小田嶋隆さんも、町山智浩さんも、それを批評性の根拠としてきたのだろうと私は思っている。

 けれども、この庶人的批評性には弱点があった。それはイデオロギーが身体化してしまった人間には有効な反撃ができないということである。

 イデオロギーが身体化した人間というのがときどきいる。例えば、日本軍国主義をドライブしたのは、いわゆる「青年将校」的なエートスであった。これは石原莞爾的な妄想的世界戦略と東北の寒村の次男坊三男坊の貧窮と飢餓と劣等感が生み出したルサンチマンのアマルガムである。だから、都市の左翼的知識人やリベラル派は、青年将校たちの「戦略」は批判できても、「飢饉の年に娘を苦界に沈める貧農の苦しみがお前らにわかるか」と一喝されると口を噤むしかなかった。日本ではこのようなコロキアルな身体実感をもつ言葉と政治的幻想が癒合したタイプの言説が伝統的に最強である。

 私が味わったこの苦しみを、お前は想像できるか、追体験できるか、理解できるか、できはしまい...という「被抑圧者の肉声」の前には誰もが黙り込むしかない。これは私たちの政治文化に深く根をおろした伝統的な恫喝の語法である。

 日本の知識人はこのような語り口に対して効果的に対抗する手段を持っていなかった。だから、肥大した政治的野心をもつ人々は、どんな政治的主張であれ、最後に「お前らのようなぬくぬく暮らしている人間に、オレの苦しみがわかってたまるか」と付け加えさえすれば、誰からも効果的な反論がなされないということを学習したのである。

 この語り口が「最強」であったのは、彼らのいわゆる「身体実感」なるものがフェイクだったからである。彼らが実感していると称する「オレの生身」それ自体がイデオロギーな構築物だったからである。

 ほんとうの生身はアモルファスで、密度に濃淡があり、多孔的で、ふにゃふにゃしていて、そこいらじゅうに「取りつく島」がある。だから、ほんとうの生身はデジタルな境界線を持たない。相手の言葉を正否や真偽を基準にして、打ち切ったり、黙らせたりすることができない。身体にできるのは、「なんか、それ、ちょっと嫌」「あ、それ、わりとダメかも」くらいのリアクションだけである。

 身体は本質的にアナログな連続体であるから、デジタルな切断が苦手なのである。

 私たちが身体実感を批評性の基盤に選んだのは、そこが不俱戴天の対立者をも対話に導きうるぎりぎり最終的な基盤たりうるような気がしたからである。言語が違っても、宗教が違っても、生活習慣が違っても、政治イデオロギーが違っても、生身をベースにする限り、私たちはかろうじて共通のプラットホームを立ち上げることができる。

 というのは、生身は疲れ、飢え、傷つき、壊れるからである。可傷性、有限性、脆弱性が「生身の手柄」である。

 どれほど政治的に正しい計画を抱いていても、一日八時間眠り、三度の飯を食い、たまには風呂に入り、知己と痛飲し、清談し、また生計を立て、家族を養いながらできること以上のことは生身の人間にはできない。一時的にはできても、長くは続けられない。その生身の弱さ、脆さがイデオロギーの暴走を抑止する。だから、私たちは身体実感に依拠する庶人的批評性を頼もしく思ってきたのである。

 しかし、今私たちが直面しているのは、もう少し複雑な状況である。それは、私たちの前に立っているのが、自分の身体実感を観念的に操作することのできる人々だからである。

 長い自己欺瞞の訓練によって、イデオロギー主導で、ヒステリックになったり、激昂したり、涙ぐんだりできる人間たちが登場してきた。彼らはそうやって「フェイクの生身」を操作して、イデオロギーに身体実感という担保を付けることに成功した。

 戦前の軍国主義イデオロギーの圧倒的な成功は、この「観念的に操作された、作りものの痛み」を縦横に駆使しえたことにあった。「プロレタリアの悲しみが、貧農の痛みが、前線で泥水を啜る兵隊の苦しみが、お前らのような気楽な市民にわかってたまるか」という決め台詞をかんどころで絶叫すれば、あらゆる市民的反論を封殺できる。この成功体験は集団的経験知として文化のアーカイブに登録された。そして、時々目端の利いたやつがそこから取り出して、効果的な使い方をする。

 60年代のいわゆる「肉体の叛乱」は、この軍国主義の利器を左翼的に奪還する試みであったと私は思う。その奪還戦は確かに局地戦的には勝利を収めたように見えた。だが、その勝利は「フェイクの生身」という取り扱いのむずかしい政治的飛び道具の定性分析や統御技の学的な捉え直しには結びつかなかった。

 そのあと30年ほど身体性の希薄な時代が続いた。そして、生身の政治学について私たちが忘れかけたころに、それは別の意匠をまとって戻ってきた。

 それが私たちの前にある政治的ポピュリズムである。

 ポピュリズムは「生身を偽装したイデオロギー」である。

 コロキアルで、砕けた口調で、論理的整合性のない言説を、感情的に口走ると、私たちはそれを「身体の深層からほとばしり出た、ある種の人類学的叡智に担保された実感」と取り違えることがある。そのことを一部の政治家とイデオローグたちは学習した。

 侮れない人々である。

 彼らの語り口は私や平川くんのそれと表面的には似ていなくもない。コロキアルでカジュアルな文体の上に、学術的なアイディアや政治的な理念が乗っている。でも、彼らの話の方がずっと分かりやすい。彼らは「プロレタリアの苦しみ」の代わりに「普通の人間である、オレの利己心と欲望」をベースに採用した。

 かっこつけんじゃねえよ。お前だって金が欲しいんだろ? いい服着て、美味い飯を喰いたいんだろ?それでいいじゃねえか。隠すなよ。

 そういう「リアルな実感」の上に「やられたらやり返せ」という中学生的マチスモと市場原理主義、弱肉強食の能力主義の言説が載っている。

 これらはまるで「生身から出てきた言葉」のように見える。でも、そうではない。というのは、そういう種類の言葉にも人間の生身は長くは耐えられないからである。少なくとも私の身体はそれに耐えられない。彼らは耐えられる。いくらでも長い時間、生身の人間には耐えられないような生臭い言葉を吐き続けられる。それは、その言葉が「フェイク」だからである。同じフレーズを何百回繰り返しても平気でいられるのは、それが身体の中から浸みだすものではなくて、どこかから持ち込んだ「既製品」だからである。

 人間の身体から発する言葉は、繰り返しに耐えられない。激情に駆られて、一時的には攻撃的であったり、断定的であったりすることはできるが、長くは続けられない。人間の身体に足場を置く言葉はもっと弱い。もっとへなへなしている。

『ジュラシック・パーク』でマルコム博士(ジェフ・ゴールドブラム)はDNA操作で創られた恐竜たちがもしほんとうに生命体であるなら、いずれ思いがけない仕方で人間の制御を逃れるだろうと不吉な予言をする。その時マルコム博士がつぶやく言葉が「生命は道を見つける(Life finds a way)」である。

 生きている言葉は必ず思いもかけない仕方で、これまで誰も言葉にできなかったアイディアを言葉にする。だから、生きている言葉ならば「必勝の」同一フレーズを繰り返すことはしない。しないというより、できない。生物は常同的であることができない。より複雑なものになることによって生き延びてきたからだ。

 フェイクの身体を足場にする言葉と、生身の身体を足場にする言葉との違いは、後の方が弱いということである。イデオロギーの強みは「できる」ことの多さで示される。生身の弱さは「できないこと」の多さで示される。

 たしかに弱さは武器にはならない。けれども、最終的に人間性を基礎づけるのは、その脆弱性なのだと私は思う。

 

 平川くんとそんな話をした。