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内田樹さんの「『世界新秩序と日本の未来』(集英社新書)のためのあとがき」 ☆ あさもりのりひこ No.1020

実現することが困難であり、これまで繰り返し挫折してきた「使命」にこそ最も強く集団を牽引する力がある。

 

 

2021年月日の内田樹さんの論考「『世界新秩序と日本の未来』(集英社新書)のためのあとがき」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

姜尚中さんとの対談本シリーズの三作目がもうすぐ刊行される。「あとがき」をあげておく。

 

 最後までお読みくださって、ありがとうございます。

 姜尚中さんとの集英社新書での対談シリーズはこれで3冊目となります。姜さんとお話をするのは、僕にとってはとても楽しく、また学ぶことの多い貴重な経験です。

 他の方との対談でもほぼすべてそうなんですけれど、僕の場合、対談のお相手になる方は、論じている事案についての専門家で、僕はその件については素人です。

 そういう人がどれくらいいるのか知りませんけれど、僕は専門家の話を聞くのが大好きなんです。前に、結婚披露宴のテーブルでたまたま隣り合わせた方の業界の話を熱心に聴いていたら、先方がふと我に返って「こんな話、面白いですか?」と不審そうな顔をされたことがありました(その時僕が聞き入っていたのは貴金属業界の景況についての話でした)。いや、面白いんです。きちんとした専門的知識の裏づけのある専門的な話は、ほんとうに面白い。

 姜さんとの対談もそうです。かちっとした枠組みは「玄人」の姜さんに作って頂いて、僕は「素人」として、その枠組みの中でくるくる走り回って、勝手な思いつきを話す。そういう役割分担が僕にとっては一番気が楽なんです。姜さんは正統派の政治学者ですから、論拠の乏しい思弁をすることについてはつよい自制が働く。僕はもとが文学研究者ですから、政治については、史料や文献を体系的に読み込んだこともないし、分析や解釈の学術的な手順を学んだこともない。僕が政治について語る言葉はどれも「床屋政談」の域を出ません。でも、「床屋政談」には固有のアドバンテージがあります。それは学術的なエビデンスがないことでも、直感的に脳裏に浮かんだ思いつきをすぐに口にできるということです。どんな荒唐無稽な話を口走っても、僕の場合はそれでペナルティーを受けるということがない。「それでも政治の専門家なのか」という批判を僕に向ける人はいないからです(専門家じゃないから)。

 何よりもありがたいのは、僕がこの領域では素人だということは読者のみなさんはつとにご存じですから、「政治についてのウチダの話は眉に唾をつけて聴かねばならない」というルールが周知されていることです。

 政治に関する領域では、僕の発言の真実含有量は35パーセントくらいです。残り50パーセントは「思いつき」で、「思い違い」が15パーセントくらいです。

 これ、別にいい加減な数字を言っているわけではありません。集英社の校閲はかなり厳密なんですけれど、初校ゲラが上がって来て校閲を見ると、僕が自信たっぷりに「・・・である」と断言している命題の15パーセントくらいについては「違います」という朱が入っています(ご安心ください。みなさんがお手にとっているこの本では原稿段階での「思い違い」は修正済みですから)。

 でも「思いつき」はそのまま残っています。というのは、「思いつき」には校閲者の朱が入らないからです。朱が入らないというよりも、朱の入れようがない。「思いつき」は真偽の判定になじまないからです。

 前に村上春樹さんが小説の中で「すぐにラジエーターが壊れるワーゲン」と書いたら、「その時代のフォルクスワーゲンは空冷式でラジエーターはありません」という指摘が車に詳しい読者からなされたことがありました。でも、村上さんは少しも慌てず「これは水冷式のフォルクスワーゲンが存在する世界のお話です」と答えていました。僕もこの態度を見習いたいと思います。

 僕が国際政治について書いていることの半分(以上)はふっと脳裏に浮かんだ「お話」です。「お話」ですから、エビデンスもないし、史料もないし、証言もないし、統計データもない。

「お話」というのは、あえて言えば、かたちあるものではなく、むしろかたちをあらしめるものです。歴史の表層に顕在化したかたちある出来事のことではなく、それらの出来事に伏流するかたちのないもののことです。

「お話」の効用は、その枠組みの中に置いてみると、それまで相互に関連づけられなかった断片的な出来事が結びつけられるという点にあります。僕は「それまで相互に無関係だと思われていたことを関連づける」ということが大好きなんです。この「関連づけるための枠組み」のことを僕は「お話」と呼んでいるわけです。「アイディア」と呼んでもいい。

 柴田元幸さんのエッセイで、柴田さんがアメリカの作家とおしゃべりしていたときに、その作家が「アメリカというのは一つのアイディアなんだよ」とぽつりとつぶやいたのを聴いて深く得心したという一節を読んだことがあります。このフレーズは僕にも深く浸みました。ほんとにそうだよなと思った。

 アメリカの場合はたしかに先行する「理念」があって、それに基づいて国のかたちが整えられたという歴史的経緯があります。でも、同じことは、程度の差はあれ、他の国々や集団について言えるんじゃないでしょうか。「日本というのは一つのアイディアなんだよ」でも「中国というのは一つのアイディアなんだよ」でも言えそうな気がします。

 僕たち日本人は日本という国がどういうものであるべきかについて、ぼんやりした「アイディア」を集団的に共有している。ただし、それはとても「ぼんやり」したものなので、自分たちがそんなアイディアを参照しながら国のかたちを整えているということにふだんは気がつかない。でも、百年、二百年という長いタイムスパンの中で俯瞰してみると、そこにありありと「日本というアイディア」が浮かび上がってくる。そして、個別的に見た時には「どうしてこんなことをしたのか、意味がわからない」という集団的なふるまいが「ああ、これって、『そういうこと』だったのか」と腑に落ちるということがある。

 そんなふうに変容しながら繰り返し再帰してきて、その集団を無意識的に方向づけるもののことを「アイディア」と僕は呼ぼうとしているわけです。そして、僕が政治史について一番興味があるのはそれぞれの政治単位における「アイディア」を見出すことなんです。

「自分たちの集団はこの世界において、人類史において、どのような果たすべきミッションを託されているのか」という自己規定は政治的ふるまいにしばしば決定的な影響力を及ぼします。そして、私見によれば、ある集団において最も強い指南力を持つミッションは「ミッション・インポシブル」なんです。「不可能な使命」。これまでにうまくやり遂げてきたこと、それについて十分な経験知を持っていることは「ミッション」になりません。これまで実現しようとしてついに実現できなかったことが最も強い指南力を発揮する。そういうものではないかと思います。

 フランス語の文法用語でépithète de nature というものがあります。「本来的形容辞」と訳されますけれど、その名詞に本来具わっている性質を表す形容詞(だから、本来なら必要のない形容詞)のことです。blanche neige「白い雪」とかcaillou dur「硬い石ころ」とか。misson impossible における「不可能な」という形容詞はこの「本来的形容辞」ではないかという気がします。つまり、実現することが困難であり、これまで繰り返し挫折してきた「使命」にこそ最も強く集団を牽引する力がある。その「使命」はこれまで一度も完全なかたちでは実現したことがありません。だから、歴史的事実としては存在しない。でも、この「かつて一度も現在になったことのない過去」(これはエマニュエル・レヴィナスの言葉です)が人間たちを集団的にとりまとめ、集団的に導いてゆく。

 僕には何となくそんなふうに思えるのです。僕が政治を語る時に、「アイディア」とか「ミッション」ということにこだわるのは、そういう仮説を立てているからなんです。

 

 とりとめのない話になってしまって済みません。「あとがき」はこの辺にしておきます。続きはまた今度。

 姜さんとのこの対談シリーズはオープンエンドですから、これからも定期的に続けてゆきたいと思っています。姜さん、どうぞよろしくお願い致します。

 

 最後になりましたけれど、姜さんとの対談の機会を設定してくださり、編集の労をとってくださった集英社新書編集部の伊藤直樹さんはじめみなさんに御礼を申し上げます。ありがとうございました。