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武道では「座を見る 機を見る」ことを重んじる。いるべきとき、いるべきところを見誤らないということである。
2021年7月23日の内田樹さんの論考「肩書について」をご紹介する。
どおぞ。
中日新聞に今月からコラムを連載することになった。これが第一回。
連載の第一回目なので、自己紹介から始めたい。
いろいろな媒体で「肩書はどうしましょう?」と訊かれる。正直言って、私に訊かれても困る。私の名刺には「凱風館館長」と印字してある。凱風館というのは私が神戸で開いている道場・学塾の名前である。そこで合気道を教え、併せて「寺子屋ゼミ」というものを開講して塾生と共同研究をしている。それが主務である。「神戸女学院大学名誉教授」というのもよく使われるが、別にそういう仕事があるわけではない。物書きで生計を立ててもいるから「著述業」とか「エッセイスト」としてもよいのだが、落ち着きが悪い。「思想家」という肩書をつけられることもあるが、思想で飯を食うという姿がどうしてもうまく想像できない。
前に佐々木幹郎さんとお会いして名刺を頂いたら「詩人」とあった。間然するところがない肩書である。「これ、最強の肩書ですね」とつい羨ましくなってしまった。
友人の能楽師の安田登さんが最近『三流のすすめ』という本を出した。安田さんによると、三流というのは「多能の人」「いろいろなことをする人」だそうである。特徴は「飽きっぽくて、一つことをやり続ける堪え性がない」こと。
「三流をめざすと、何もものになりませんし、ほとんどのことは役に立ちません」と安田さんは書くけれど、ご本人はそういう生き方を貫いて、とても楽しい人生だったからそれでいいと言い切る。
そう言えば、私も飽きっぽい子どもだった。あだ名は「退屈たっちゃん」だった。二言目には「退屈だ」と嘆くからである。「わくわくすること」に異常にこだわりがあって、「あまり面白くないけれど惰性で何かをする」ということがどうしてもできない子どもだった。この傾向は長じても治らず、あれこれの仕事に手を出したけれど、ついにいかなる分野においても「一流」にはなれなかった。
それでも、「これだけは人に負けない才能」が一つだけある。それは「嫌なことに我慢できない才能」である。それを才能と呼んでいいかどうかわからないが。
「嫌なこと」がはるか遠くに望見されるだけで肌に粟を生じ、どうやってそれを避けるかの算段で頭がいっぱいになる。ふつうの人は「嫌なこと」を受け止め、向き合い、戦うが、私は「嫌なこと」にまったく耐性がないので、我慢し耐え忍ぶことができない。もちろん、くんずほぐれつ戦うなんてもってのほかである。そんなことをしたら命が縮むばかりだ。
だから、どうすれば「嫌なこと」に遭遇しないで済むか、そればかり考えて生きてきた。武道家として何とか生計を立てられるのも、おそらくはこの才能のおかげである。武道では「座を見る 機を見る」ことを重んじる。いるべきとき、いるべきところを見誤らないということである。
「機を見ざればあるまじき座に永く居て、故なきとがをかふゝり、人の機を見ずしてものを云ひ、口論をしいだして、身を果す事、皆機を見ると見ざるにかゝれり」と柳生宗矩の『兵法家伝書』にはある。
いなくてもいいところにいて、言わなくてもいいことを言って失命したやつが多い。それを避けるのが武人の第一の気づかいであるというが宗矩の教えである。
私のように圭角のある人間がなんとか古希まで生き延びてこられたのは「嫌なこと」を避けるべく必死で「機を見て」きたおかげかも知れない。違うかも知れない。