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内田樹さんの「『コロナ後の世界』(文藝春秋)まえがき」(後編) ☆ あさもりのりひこ No.1036

別に相手から具体的な助力や支援を求められているわけじゃないけれど、自分の方から一歩を踏み出す。自分から始める。自分が起点になる。

 

 

2021年8月2日の内田樹さんの論考「『コロナ後の世界』(文藝春秋)まえがき」(後編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 今よく「ダイバーシティ&インクルージョン」という標語を聞きます。「多様性と包摂」。もちろん、すてきな目標です。ぜんぜん悪くない。でも、これって、微妙に「上から目線」だと思いませんか。

 つまり、「多様性を認めよう」と言っている人って、自分はその集団における「正系」に属しており、「メンバーシップ」を確保しており、「オレたちとはちょっと毛色の違ったのが何人かいてもいい」というニュアンスを漂わせている。「包摂」もそうですよね。「他者や異物を包摂しよう」という人って、「包摂する側」にはじめから立っている。

 いや、それが悪いと言っているんじゃないんです。それで上等です。でも、ちょっと「上から目線」「中から目線」じゃないかと思うんです。ちょっとだけですけど。

 もちろん、僕は「上から目線・中から目線」を止めろと言っているわけじゃないんですよ。「はしなくも、無自覚な優位性・内部性を露呈し」とか言い出したら、「元の木阿弥」ですからね。どうやって、そういうところから抜け出そうかとう話をしているときに、「そういう話」を始めてどうする。「君たち、そういう優越的な態度をただちに止めなさい、反省しなさい、恥じ入りなさい」とか、そういうことを僕は言っているわけじゃないんですよ。勘違いしないでくださいね。僕は「それで上等」と申し上げているんです。それで結構ですから、これからもそういう態度をどんどん続けてくださっていいんです。

 でも、「上等」にも「その上」があるんじゃないかと思っているんです

 できるできないは別として、もし「上等の上」があるなら、それをめざしてもいいんじゃないかと僕は思うんです。それは透視図法における無限消失点のようなものです。実体じゃない。作業上の擬制です。でも、それがないと絵が描けない。そういうものとして「多様性と包摂の上」があってもいいんじゃないか。

 それは何かというと、言葉が平凡過ぎて脱力しそうですけれど、「親切」です。

「人に親切にする」ということは、相手より立場が上でなくても、集団のフルメンバーでなくても、できる。

 ちょっとしたことなんです。電車で席を譲ってあげるとか、荷物を持ってあげるとか、エレベーターで「お先にどうぞ」と声をかけるとか。そういうふうな「かたちのあること」だけに限られません。極端な話、相手が「親切にされた」と気が付かなくてもいいんです。朝ゴミ出しをしにゆくときに登校する子どもたちを見て、「今日一日元気でね」と心の中で手を合わせるとか、その程度でいいんです。別に相手から具体的な助力や支援を求められているわけじゃないけれど、自分の方から一歩を踏み出す。自分から始める。自分が起点になる。「心の中で手を合わせる」くらいでも「一歩を踏み出す」にカウントしていいと僕は思います。だったら、そんなにむずかしい仕事じゃありません。

 僕はそういう「親切」がとても大切だと思うんです。

 それが今の日本社会で最も欠けているもののような気がするからです。「親切にしましょう」なんて、小学校の学級標語みたいですけれど、日本人にはどうもそれができなくなっているような気がします。「子どもでもできること」を大人たちがしなくなっている。それが問題なんじゃないかと思います。とくに「賢い」つもりでいる大人たちが「親切であること」の価値を顧みなくなった。

 僕は「どうやったら親切になれるか」ということをずっと考えてきました。そういうことを考えるのは僕が「親切じゃない人間」だからです。当たり前ですよね。自分が生まれつき親切だったら、そもそも「親切にする」という言葉の意味がわからない。周囲の生物がすべて餌であるT―レックスに向かって「あなた、強いですね」と言っても「え? 『強い』ってどういう意味?」と反問されると思います(爬虫類だから人語は解さないですけど)。「強い」という言葉に意味があると感じるのは「弱い」ものだけです。それと同じで、「親切にしよう」という言葉にリアリティーを感じるのは「親切じゃない人間」だけです。自分がそれほど親切じゃないからこそ他人の親切が身にしみる。ああ、ありがたいなあと思う。そんなことしてもらえるとは思わなかったから。

 僕は親切な人間ではありません。時々なにかのはずみに「内田さんて、意外にいい人なんですね」と驚かれることがありますけれど、それは僕の日常の挙措が「いい人じゃない」からです。「内田さんて、意外に親切ですね」とも言われます。意外なんです。僕はかなり心の狭い人間です。すぐ腹を立てるし、人に対して意地悪な気持ちになるし、攻撃的になると抑えが効かないことがある。つい「ひどいこと」を言ってしまう。そして「ひどいこと」を言うときって、いくらでも言葉が湧き出してくる。この本を読んで、「おい、おまえのどこが親切なんだよ。悪口ばっか書いているじゃないか」とあきれる読者がいると思います。ほんとにそうなんです。この本、読むと悪口ばっかり書いている。

 だいたい、この文章からして「日本社会を深く蝕んでいる病毒」とかいう言葉から始まっている。ずいぶん無慈悲な言いようですよね。でも、そういうことを書きながら、「ああ、またやっちゃった」と思ってはいるんです。あちこちでそうやって蹴つまずいたり、こけたりしながら「無限消失点」としての「親切」を遠くめざしてはいるんです。その僕の素志だけは信じて頂きたい。現にできていなくても、「遠い目標をめざす」ということはできるんです。どうぞ、そういう不細工な生き方をご海容願いたいと思います。

 というわけで、この論集は「尖った言葉が行き交う現代日本社会を憂えて、人に親切に接しようとしている男が、思い余ってつい『尖った言葉』を口走ってしまう」典型的な事例としてお読みいただければと思います。そんなややこしいもの読みたくないよと思う方もいるでしょうけれど、まあ、そこは一つなけなしの「親切心」を絞り出して、お付き合いください。

 

2021年8月

 

内田樹