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内田樹さんの『ポストコロナ期を生きるきみたちへ』まえがき(前編) ☆ あさもりのりひこ No.1045

今回のコロナ・パンデミックによって、僕たちの世界はその「外装」を剥ぎ落されて、そのなんともみすぼらしい骨組みが露出しました。

 

 

2021年8月29日の内田樹さんの論考「『ポストコロナ期を生きるきみたちへ』まえがき」(前編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

みなさん、こんにちは。内田樹です。

 今回のアンソロジーは『ポストコロナ期を生きる君たちへ』というタイトルです。

 僕が編者になって、いろいろな方にご寄稿をお願いして一冊を作るという企画は、これで『人口減少社会の未来学』(文藝春秋)、『日本の反知性主義』、『転換期を生きるきみたちへ』、『街場の日韓論』(以上晶文社)に続いて5冊目となります。今回は『転換期を生きるきみたちへ』と同趣旨で、中学生高校生を想定読者にしたものです。

 どういう趣旨の本であるかをご理解頂くために、寄稿者への「寄稿のお願い」を採録しておきます。まずはこれをどうぞ。

 

 みなさん、こんにちは。内田樹です。

 またまた晶文社からのアンソロジーへのご寄稿の依頼です。

 今回のお題は『ポストコロナ期を生きるきみたちへ』というものです。いつものように安藤聡さんにご提案頂きました。

 タイトルから知れる通り、中学生高校生を想定読者に、彼らの前に開ける世界の風景がこれからどう変わるのか、その未知の領域に踏み入るに際して、どういう心構えや備えをしたらよいのか、みなさまから助言と支援をお願いしたいと思います。

 

 以前同じような趣旨で『転換期を生きるきみたちへ』というアンソロジーを編んだことがあります。そのときに寄稿をお願いするときに、編者として「中高生を想定読者に書くことは楽しいですよ」ということを強調しました。

 どうして楽しいかというと、中高生を対象に書くと、話が根源的にならざるを得ないからです。大人同士だと、いろいろな専門用語について、「わかったつもり」になって話が進みますが、中高生相手だと、その手が使えない。一つ一つについて「これはですね」と噛んで含めるように説明する必要があります。「資本主義」でも「貨幣」でも「国民国家」でも「一夫一婦制」でも、そういうあたかも自然物のように目の前にあって、どこをどう押したらどう動くかわかっているせいで、ふだんはわれわれが根源的に思考することを免除されている概念についても、中高生相手に知的に誠実に対応しようとしたら、きちんと自分の責任で定義してみせる必要があります。

 伊丹十三があるときに「野球のことをまったく知らない女性読者に野球の面白さを説明する」という寄稿依頼を受けて、食指をそそられたということをエッセイに書いています。「ピッチャーとキャッチャーは味方同士です」から始めるのです。実際に伊丹十三はそのようなエッセイを書き残してはいませんが(と思います)、あったら読みたいですね。

 サルトルもどこかで「火星人にサッカーの面白さを説明する」という設定を、ものごとを根源的に考える構えの喩えとして挙げていました。それを読んで、僕も腕を組んでしばらく眼を中空に泳がせて考えたことがあります。火星人にどう説明したらいいんでしょうね。たぶん「空間は『フェア』と『ファウル』に分けられる」「ボールは『生きている』か『死んでいるか』のどちらかの状態にある」「どこで、どういうふうに『死んだ』かによって、ボールの意味は決まる」・・・そういういくつかの根源的なルールを書き出すことになるのじゃないかと思います。そして、そうこうしているうちに、ボールゲームが遊びを通じて子どもたちに人間世界のコスモロジカルな構造を刷り込むための教化的な装置であるということに思い至る・・・そう考えると「ものごとを根源的に説明することの功徳」というのはたしかにあると思います。

 

 今回のコロナ・パンデミックによって、僕たちの世界はその「外装」を剥ぎ落されて、そのなんともみすぼらしい骨組みが露出しました。

 グローバル資本主義というのは人・モノ・資本・情報が国民国家の国境線を自由に超えて超高速で行き来するというシステムのことです。でも、感染拡大のせいで、電磁パルス以外の形状のものは簡単には国境線を越えることができなくなりました。ブレグジットと「アメリカ=メキシコ国境の壁」に続いて、今度のパンデミックで、国境線といういずれ賞味期限が切れると思われていた政治幻想は強固な現実として再構築されました。

 グローバル資本主義は「金さえ出せば何でも買える」という信仰箇条の上に基礎づけられていましたが、実は「マスク」一つさえ買えないことがあるということもわかりました。

「必要なものは・必要な時に・必要なだけ・金を出して買う」という「ジャスト・イン・タイム・システム」による在庫ゼロをスマートな経営の理想にしていた国はどこも医療器具・医薬品の戦略的備蓄の不足に苦しみました。

「商品」として仮象しているモノにうちには「ほんとうに要るもの」と「ほんとうは要らないもの」があるということも、今回の教訓の一つでした。自動車やコンピュータは「あると便利」ですけれども、「ないと死ぬ」というものではありません。でも、医療資源や食料やエネルギーは「ないと死ぬ」。そういう物資を他の商品と同列に扱うことはできません。でも、資本主義はその平明な事実を隠蔽してきた。「ほんとうに要るもの」を人々が市場で調達することを控えて自給し始めても、「ほんとうは要らないもの」を手に入れるために命を削ることを止めても、資本主義は立ち行かなくなるからです。

 医療は商品だという信憑も崩れました。医療は金を出して買うものである、金がない者は医療を受けることができない、病気で苦しんでも自己責任だというのが新自由主義の時代の「常識」でした。でも、一般の疾病はそれで済んでも、感染症相手にはその「常識」が通用しません。アメリカにはいま2750万人の無保険者がいます。彼らは発症しても適切な治療が受けられないままに重症化します。放置しておけば、彼らを感染源にウィルスは蔓延し続ける。感染症は「全住民が等しく良質な医療を受けられる社会」でなければ抑制できない疾病です。そして、アメリカはこれまでそういう社会ではなかった。

 ウイルス一つによって、わずか数か月の間に、ほんの昨日までこの世界の「常識」だと思われていたことのいくつかが無効を宣告されました。それがどのような歴史的な意味を持つことになるのか、人々はまだそのことを主題的には考え始めてはいません。日々の生活に追われて、そんな根源的なことを考える暇がありませんから。

 

 でも、中高生たちはこの「歴史的転換点」以後の世界を、これから長く生きなければなりません。彼らに「生き延びるために」有益な知見や情報を伝えることは年長者の義務だと僕は思います。