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内田樹さんの「『コロナ後の世界』まえがき」(前編) ☆ あさもりのりひこ No.1048

「世の中を少しでも住みやすくする」事業においては、「仲間を増やす」ということが一番大切だと僕は思っています。

 

 

2021年8月29日の内田樹さんの論考「『コロナ後の世界』まえがき」(前編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

『コロナ後の世界』(文藝春秋)は10月20日刊行予定。少しフライングするけれど、販促活動として「まえがき」を載せておく。こんな本。

 

まえがき

 

 みなさん、こんにちは。内田樹です。本をお手に取ってくださってありがとうございます。

 この『コロナ後の世界』は「ありもの」のコンピレーションです。素材になったのはブログ記事やいろいろな媒体に発表した原稿です。でも、原形をとどめぬほどに加筆しておりますので、半分くらいは書き下ろしの「セミ・オリジナル」と思ってください。

 かなり時局的なタイトルになっていますが、それはいくつかの論考が今回のパンデミックで可視化された日本社会を深く蝕んでいる「病毒」を扱っているからです。それについて思うところを書いて「まえがき」に代えたいと思います。

 僕は今の日本社会を見ていて、正直「怖い」と思うのは、人々がしだいに「不寛容」になっているような気がすることです。

 言葉が尖っているのです。うかつに触れるとすぐに皮膚が切り裂かれて、傷が残るような「尖った言葉」が行き交っている。だから、傷つけられることを警戒して、みんな身を固くしている。あるいは、自分の言葉の切れ味がどれくらいよいか知ろうとして、「刃」に指を当てて、嗜虐的な気分になっている。

 そういう「尖った言葉」が行き交っている。外から見ると、あるいはスマートで知的なやりとりが行われているように見えるのかも知れません。でも、僕はそういう言葉がいくら大量に行き交い、蓄積しても、それが日本人全体の集団としてのパフォーマンスが向上することには結びつかないと思います。

 僕はものごとの適否を「それをすることによって、集団として生きる知恵と力が高まるか?」ということを基準にして判断しています。もちろん、その言明が「正しいか正しくないか」ということを知るのもたいせつですけれど、僕はそれ以上に「それを言うことによって、あなたはどのような『よきもの』をもたらしたいのか?」ということが気になるのです。

 言っている言葉の内容は非の打ち所がないけれど、その言葉が口にされ、耳にされ、皮膚の中に浸み込むことによって、周りの人たちの生きる意欲が失せ、知恵が回らなくなるのだとしたら、その言葉を発する人にはそれについての「加害責任」を感じて欲しい。

 よく考えてみたら、それは僕がずいぶん昔からずっと言ってきたことでした。

 若い頃は左翼の言葉づかいに対して、そのような不満を感じていました。「革命をめざす」といっている人たちがお互いに相手について「はしなくも階級意識の欠如を露呈し」とか「嗤うべきプチブル性」とかいう非難を投げ合っていたからです。正直言って、そんなことをいくらやっても得るところはほとんどないんじゃないかと思っていました。というのは、そうやって、「革命闘争を担う資格を持つ人」の条件を厳しくすればするほど、「革命の主体」の頭数は減るだけだからです。「世の中をよりよいものにしよう」と願う資格のある人間の条件を厳密化することによって、この人たちはどうやって世の中をよくする気なんだろうと思っていました。

 同じことは、そのあとフェミニズムやポストモダニズムにも感じたことです。今度は「はしなくも性差別意識を露呈し」とか「うちなる植民地主義に気づくこともなく」というふうに表現は変わりましたけれども、それでも「真に差別され、徹底的に疎外された人間だけがシステムを批判する権利を持つ(それ以外の人間はすべて無意識のうちに差別し、疎外する側に加担している)」ということになると、すてきに切れ味はいいテーゼではあるのですけれども、これもやっぱり、徹底すればするほど「世の中を少しでも住みやすくする」事業の仲間の頭数を減らす結果になる。

 僕が年来主張しているのは、おおむねそういうことです。みんながちょっとずつ「貧者の一灯」を持ち寄って、それをパブリックドメインに供託して、「塵も積もれば山」をめざすという方が「すべてのリソースを正しい目的のためだけに用いる」ことをめざすより話が早いんじゃないか。そう思っているのです。「世の中を少しでも住みやすくする」事業においては、「仲間を増やす」ということが一番大切だと僕は思っています。自分と多少意見が違っている人についても、「まあ、そういう考え方もあるかも知れないなあ」と思って、正否の判断を急がない。中腰で少し耐える(あまり長くは無理ですけれど)。そして、どこかに「取り付く島」があったら、それを頼りに対話を試みる。