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内田樹さんの「憲法の話(長いです)」(その1) ☆ あさもりのりひこ No.1079

日本はアメリカの属国である。安全保障であれ、エネルギーであれ、食糧であれ、重要な国家戦略についてわれわれは自己決定権を有していない。

 

 

2021年11月3日の内田樹さんの論考「憲法の話(長いです)」(その1)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

もうすぐ出るSB新書の『戦後民主主義に僕から一票』には憲法について過去にブログに載せた文章がいくつか再録されている。これもその一つ。ただし、新書化に際して大幅に加筆したので、オリジナルの2倍くらいの量になっている。今日は11月3日。日本国憲法公布から75年経った。改めて憲法について考えたい。

 

 私が憲法に関して言いたいことはたいへんシンプルである。それは現代日本において日本国憲法というのは「空語」であるということだ。だから、この空語を充たさなければいけないということだ。

 日本国憲の掲げたさまざまな理想は単なる概念である。「絵に描いた餅」である。この空疎な概念を、日本国民であるわれわれが「受肉」させ、生命を吹き込んでいく、そういう働きかけをしていかなければいけない。

 憲法は書かれたらそれで完成するというものではない。憲法を完成させるのは、国民の長期にわたる集団的努力である。そして、その努力が十分でなかったために、日本国憲法はまだ「受肉」していない、というのが私の考えだ。

 

 もう一つ長期的な国民的課題がある。それは国家主権の回復ということである。

 日本はアメリカの属国であって国家主権を持っていない。その国家主権を回復するというのはわれわれの喫緊の国家目標である。これはおそらく100年がかりの事業となると思う。これもまた日本国民が引き受けなければならない重い十字架である。

 そして、国家主権の回復という国民的事業を一歩ずつでも前に進めるためには、「日本国民は今のところ完全な国家主権を持っていない」という痛ましい事実を認めるところから始めなければならない。

 日本はアメリカの属国である。安全保障であれ、エネルギーであれ、食糧であれ、重要な国家戦略についてわれわれは自己決定権を有していない。この事実をまず国民的に認識するところから始めなければいけない。

 けれども、現在の政権を含めて、日本のエスタブリッシュメントはそれを認めていない。日本はすでに完全な国家主権を有しているという「嘘」を信じているか、信じているふりをしている。すでに国家主権を有しているなら、アメリカの属国身分から脱却するための努力の必要性そのものが否定される。この重篤な病から日本人が目覚めるまで、どれくらいの時間が要るのか、私には予測できない。恐ろしく長い時間がかかることは間違いない。

 

 最初に「憲法は空語である」という考え方について、少しご説明を申し上げておきたい。

 いろいろなところから憲法についての講演に呼ばれる。もちろん、呼んでくれるのはどこも護憲派の方たちである。護憲派の集会へ行くと、客席の年齢層が高い。平均年齢はおそらく70歳くらいだと思う。若い人はまず見かけることがない。日頃から、駅頭でビラを撒いている方たちもそうだ。地域の市民たちが文字通り「老骨に鞭打つ」という感じで情宣活動をしたり、護憲派集会の会場設営の力仕事をされている。若い人が来ない。どうしてこんな老人ばっかりなんだろう。どうして日本の護憲派の運動は若い人に広がらないのか。

 それはどうやら若い人たちはむしろ改憲派の言説の方にある種のリアリティーを感じているかららしい。改憲派の言葉の方に生々しさを感じる。そして、護憲派の言説は「空疎」だという印象を持っている。たぶん、そうなのだと思う。だが、どうして護憲派の言説にはリアリティーがないのか。

 

 私は1950年生まれである。だから、私にとって日本国憲法はリアルである。それを「空疎」だと思ったことがない。憲法は私にとって山や川のような自然物と同じようなものとして、生まれた時からそこにあった。良いも悪いもない。自然物についてその良否を語らないのと同じだ。「憲法を護ろう」というのは、私たちの世代にとっては、当たり前のことであるわけだ。それは「大気を守ろう」とか「海洋を守ろう」とかいうのとほとんど変わらないくらい自然な主張に思えていた。

 だから、護憲派の人たちに60代、70代の人が多いのは当然なのである。この世代にとっては憲法には自然物としてのリアリティーがあるからだ。でも、若い世代は憲法にそのようなリアリティーを感じない。同じ文言であるにもかかわらず、育った年齢によって、その文言のリアリティーにこれほどの差が出るのだ。この差はどうして生まれたのか?

 この差は「戦中派の人たちが身近にいたか、いなかったのか」という先行世代との関わりの違いから生まれたと私は思っている。

 戦中派というと、われわれの世代では、親であったり、教師であったりした人たちだ。この人たちの憲法観が私たちの世代の憲法への考え方を決定づけた。戦中派の憲法理解が、戦後日本人の憲法への関わりを決定的に規定した。というのが、私の仮説である。

 私自身は、戦中派であるところの両親や教師たちから、「とにかく日本国憲法は素晴らしいものだ」ということを繰り返し聞かされてきた。そして、「この憲法は素晴らしいものだ」と言う時に彼らが語る言葉にはある種の重々しさがあった。「声涙ともに下る」実感があった。こんなよい憲法の下で育つことができて、お前たちはほんとうに幸せだ、と深い確信をこめて彼らは語った。その言葉に嘘はなかったと思う。

 私たちが子どもの頃、天皇制を批判する人は今よりはるかに多かった。もちろん学校の先生たちの中にもいた。天皇制について、はっきり廃絶すべきだと言い切る先生たちは小学校中学校に何人もいた。「天ちゃん」というような侮蔑的な言葉遣いで天皇を呼ぶ人もいた。それを咎める人もいなかった。でも、憲法について批判的なことを言う大人は私が子どもの頃には周りにはいなかった。

 私の世代には名前に「憲」という字が入っている男子がたくさんいる。今はもうほとんどいないと思うが、1946年の憲法公布から10年間ぐらいは、「憲男」とか「憲子」という名前はそれほど珍しくなかった。この時期だけに特徴的な命名だったと思う。それだけ親の世代が憲法に多くのものを期待していたということである。

 だから、「改憲論」というものを私はずいぶん後年になるまで目にしたことがなかった。たしかに、自民党は党是として結党時から自主憲法制定を掲げていたはずだが 、憲法を改正することが国家的急務であるというような言説がメディアを賑わせたということは、ずいぶん後になるまでなかった。特に1960年代末から70年にかけて、私が高校生大学生の頃は、世界的な若者の叛乱の時代である。そんな時期に憲法が話題になるはずがない。活動家たちはどうやってブルジョワ民主制を打倒して革命をするかという話をしていたのである。ブルジョワ憲法の良否が政治的主題になるはずがない。「憲法を護持すべきか、改正すべきか」が喫緊の政治的論件だと主張するような人間に私はその時代に一人も会ったことがない。

 つまり、私たちの世代は、子どもの頃は憲法を自然物だと思い込んでおり、学生のころは憲法のことは眼中になく、いずれにせよ、憲法が政治的主題であったことはなかったのである。

 ところが、ある時期から改憲論が政治的論件としてせりあがってきた。そう言われてみてはじめて「憲法を護持すべきか、改正すべきか」ということが一つの問題として存在するということを知ったのである。

 私は「憲法は自然物」と思い込んで育ってきた世代であるから、むろん「生まれつきの護憲派」である。しかし、改めて護憲論とされる人々の言葉を読むと、なんだかずいぶん「空疎」に思えた。それに比すと、改憲論には独特の生々しさと激しさがあった。憲法に対するただならぬ憎しみを感じた。これでは憲法に対してニュートラルな立場にある人たちは改憲論の方に引きずられるかもしれないと思った。

 そこで、「生まれつき護憲派」の立場から、どうして護憲論にはリアリティーがないのかということを考えた。

 考えたらすぐにわかった。

 日本国憲法を貫く理念は素晴らしいものであるが、これは日本人が人権を求める戦いを通じて自力で獲得したものではない。戦争に負けて、日本を占領したアメリカの軍人たちが「こういう憲法がよろしかろう」と判断して、下賜されたものである。日本人が戦い取ったものではない。負けたせいで転がり込んできたものである。人からもらったものを「護る」という仕事なのだから、あまり気合が入らないのも無理はない。

 私だってもちろん憲法が市民革命を通じて獲得されたものではないということは歴史的事実としては知っていた。にもかかわらず、それを「たいへんに困ったことだ」と実感したことはなかった。それは戦中派の人たちが憲法の制定過程に関してほぼ完全に沈黙していたからだ。こちらは子どもであるから、大人が決して話題にしないことについて、「それこそが問題なのだ」というようなことは言わないし、考えもしない。大人たちはうすうす知っていたのだろうが、日本政府とGHQとの間で、どういう駆け引きがあって、どういう文言の修正があって、現行憲法が制定されることになったのか、私たち子ども相手には何も説明がなかった。