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内田樹さんの「憲法の話(長いです)」(その3) ☆ あさもりのりひこ No.1081

でも、この舞台の書き割りを自然物のように見せていたのは、先行世代の作為だった。戦中派世代の悲願だった。「書き割り」の日本国憲法を、あたかも自然物であるかのように絶対的なリアリティーをもつものとして私らに提示したのは彼らである。その戦中派の想いを私は可憐だと思う。

 

 

2021年11月3日の内田樹さんの論考「憲法の話(長いです)」(その3)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 戦争経験についての世代的な沈黙というのと対になるかたちで憲法制定過程についての沈黙がある。これも私は子どもの頃から聞いたことがない。学校の教師も、親たちも、近所の大人たちも、憲法制定過程について、どういう制定過程でこの憲法が出来たのかという話を私たちにはしてくれたことがなかった。大人たちがそれについて話しているのをかたわらで聴いた記憶もない。憲法制定は親たち教師たちの年齢であれば、リアルタイムで目の前で起きたことだ。1945年から46年にかけて、大人たちは何が起きているか、だいたいのことは知っていたはずである。憲法制定過程に関してさまざまな「裏情報」を聴き知っていたはずである。でも、子どもたちにはそれを伝えなかった。

 改憲派が随分あとになってから「押し付け憲法」ということを言い出した時に私は実はびっくりした。子どもの時はそんなこと考えたこともなかったからだ。憲法は日本人が書いたのか、アメリカ人が書いたのかについて、あれこれの説が憲法制定時点から飛び交っていたということを知ったのは、恥ずかしながらずいぶん大人になってからである。

 最初に結婚した女性の父親は平野三郎という人で、その当時は岐阜県知事だったが、その前は自民党の衆議院議員だった。その岳父が、当時はもう70歳を過ぎていたが、酔うと私を呼んで日本国憲法制定秘話を語ってくれた。私が日本国憲法の制定にはみんなが知らない秘密があるという話を個人的に聴いたのは彼からが最初だった。25歳を過ぎてからの話である。岳父は幣原喜重郎の秘書のような仕事をしていたので、死の床で幣原喜重郎が語ったことを、後に国会の憲法調査会で証言している。九条二項を思いついてマッカーサーに進言したのは幣原さんだと岳父は主張する。憲法九条二項は日本人が自分で考えたんだ。押し付けられたものじゃないとテーブルを叩きながら語った。

 そういう話を聞いて、どうしてこういう事実がもっとオープンに議論されないのか不思議に思った。憲法制定過程については、実にいろいろな説が語られている。「藪の中」なのだ。でも、憲法というのは国のかたちの根幹を決定するものである。その制定過程に関して諸説があるというのはいくらなんでもまずい。歴史的事実として確定する必要がある。国民全体として共有できる歴史的な事実を確定して、それ以上真偽について議論する必要はないということにしないといけないと思う。しかし、現代日本では、憲法制定過程に関して、「これだけは国民が事実関係に関しては争わない」ということで共有できるベースがない。

 なぜこんなことが起きたのか。それはリアルタイムで憲法制定過程を見ていたはずの世代の人たちが、それについて集団的に証言してくれなかったからだ。知っていることを言わないまま、沈黙したまま死んでしまったからだ。

 実際に戦争で多く死んだのは明治末年から昭和初年にかけて生まれた世代だ。この戦争を現場で経験したこの人たちは復員してきたあと、結婚して、家庭を作って、市民として生活を始めた。当然、これからの日本はどうなるんだろうということに興味をもってみつめていた。日本の行く末がどうなるか心から案じていたと思う。国のかたちを決める憲法については、その制定過程についても、日々どうなっているんだろうと目を広げて、日々話し合っていたはずである。でも、その過程で、「では、憲法はこういうふうに制定されたという『話』を国民的合意として採用しよう」ということをしなかった。

 日本国憲法には前文の前に「上諭」というものが付いているが、私はそれをずっと知らなかった。上諭の主語が「朕」だということも知らなかった。でも、日本国憲法は「朕」が「公布」している。天皇陛下が「枢密顧問の諮詢」と「帝国憲法73条による帝国議会の議決を経て」日本国憲法を公布している。日本国憲法を公布した主体は天皇なのだ。ちゃんと「御名御璽」が付いている。でも、私たちが憲法について教えられた時には、その上諭が削除されたかたちで与えられた。どういう法理に基づいてこの憲法が制定されたかという「額縁」が外されて、テキストだけが与えられた。

 憲法の個々の条項については、その適否についていろいろな意見があっても構わないと思う。でも、その憲法がどういう歴史的な過程で、どういう議論を経て制定されていったのかという歴史的事実についてだけは国民的な合意があるべきだと思う。その合意がなければ、憲法の個別的条項についての議論を始めることはできない。でも、日本人にはその合意がない。憲法制定の歴史的過程は集団的な黙契によって隠蔽されている。

 憲法についての試案があったとか、マッカーサー三原則があったとか、GHQの民生局が草案を作って、11日間で草案を作ったとか、さまざまな説があり、それについていちいちそれは違うという反論がある。どれが真実なのかがわからない。「これが出発すべき歴史的事実」として国民的に共有されているものがない。

 憲法とは、われわれの国の最高法規である。その最高法規の制定過程がどういうものだったのかについて国民的な合意が存在しない。マグナカルタでも、人権宣言でも、独立宣言でも、どういう歴史的状況の中で、何を実現しようとして、誰が起草したのか、どういう議論があったのか、どういう風に公布されたかということは歴史的な事実として開示されている。それが当然だ。でも、日本国憲法については、それがない。制定過程が隠蔽されたしかたで私たち戦後世代に憲法は与えられた。それをなんの疑いもなく、天から降ってきた厳然たる自然物のように受け止めてきたのが今や70にならんとしている私らの世代の人間なのだ。改憲派の人たちに、「こんなもの押し付けられた憲法だ」、「こんなものはGHQの作文だ」と言われるとびっくりしてしまう。自然物だと思っていたものがこれは「舞台の書き割り」のようなものだと言われたわけなのだから。

 

 でも、この舞台の書き割りを自然物のように見せていたのは、先行世代の作為だった。戦中派世代の悲願だった。「書き割り」の日本国憲法を、あたかも自然物であるかのように絶対的なリアリティーをもつものとして私らに提示したのは彼らである。その戦中派の想いを私は可憐だと思う。私には彼らの気持ちがわかる気がする。もうみんな死んでしまった。父も岳父も亡くなった。大事なことを言い残したまま死んでしまった。だから、私らはそれに関しては想像力で補うしかない。