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内田樹さんの「寺子屋ゼミ後期オリエンテーション「コロナ後の世界」(その3)」 ☆ あさもりのりひこ No.1097

子どもたちが好きなことを、好きなように学ぶことができて、自分の潜在能力を思う存分発揮できるような環境を提供すること。

 

 

2021年11月23日の内田樹さんの論考「寺子屋ゼミ後期オリエンテーション「コロナ後の世界」(その3)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 もう一つ前景化してきたのが、「教育のアウトソーシング」です。コロナ2年目に入って、そのことが骨身にしみた人も多いと思います。僕はこれまで教育現場で90年代から「教育は海外にアウトソーシングできる/アウトソーシングすべきだ」という声が広がっていることに不安を感じていました。

 1991年に大学設置基準の大綱化がありました。少子化に伴って、大学の淘汰が始まった。その時に文科省はどの大学が生き延び、どの大学が退場するかを決定することを「市場に委ねる」という決断を下しました。明治以来日本の教育行政は「いかにして良質な教育機関を作り出すか。いかにして国民にできるだけ多くの就学機会を保障するか」という目標をめざしてきました。話は簡単でした。ところが人口減が始まり、教育機関を淘汰しなければならなくなった。でも、文科省は「学校を増やす理屈」はいくらでも出せるけれど、「学校を減らすロジック」は手持ちがない。仕方がないので、「市場に丸投げ」することにした。どの学校が生き延び、どこが消えるかは「消費者」が決めるべきだというビジネスのロジックにすがりついたのです。

 この時点で日本政府は「国内に世界レベルの高等教育を維持する」というモチベーションを失いました。というのは、市場では商品サービスの価値を決定するのは消費者だからです。どれほど良質な商品でも買い手がいなければ市場から消えるし、どれほどジャンクな商品でも市場が歓迎すれば生き延びる。「市場は間違えない」というルールに従うならば、学校は「市場に好感される教育商品」の提供に専念するしかなくなる。

 そのように教育に市場原理が導入されたことの当然の帰結として、「教育のグローバル化」が始まった。英語で授業をして、外国人教員を雇い、海外提携校に留学生を送り出し、留学生を受け入れるということが熱心に進められました。でも、それは言い換えると、世界中どこでも、好きな学校で好きな学習機会を「買う」ことができるということです。「必要なものは、必要な時に、必要なだけ市場で調達すればいい」ということは、言い換えると国内にさまざまなレベルのさまざまな種類の学校を揃えておく必要はもうない、ということです。世界最高レベルの教育が受けたければ、欧米にいくらでもある。学力が高くて経済力のある子どもはハーヴァードでも、オックスフォードでも、スタンフォードでも、北京大学でも、そこに行けばいい。そういうふうに豪語する人が21世紀に入ってから増えてきました。それが気がつけば支配的な世論になっていた。でも、それは言い換えると、日本国内に世界レベルの教育機関をわざわざ高いコストをかけて作る必要はないということです。アウトソースできるものはアウトソースすればいい。

 その結果、実際に上流階層では、子どもたち中等教育の段階からヨーロッパのボーディングスクールやアメリカのプレップスクールに送り出すことが流行しています。自分の子どもたちには欧米でレベルの高い教育を現に受けさせている人たちが日本の教育制度を設計しているわけですから、国内の教育レベルは当然下がります。日本の教育制度は「ダメだ」という判断を下したからこそ、海外に留学させたわけですから、その判断が正しいことを証明するためには、日本の教育が「見限るに十分なほどダメである」という現実を創り出すのが一番確実です。だから、エリート教育は海外に丸投げすればいいと主張する人たちは、国内の学校については「低賃金で、長時間労働を厭わず、辞令一つで海外に赴任するようなイエスマン社員」を大量生産することに特化すればいいとなげやりな態度を示す。ですから、学校教育に対する公的支援はこの四半世紀減り続けています。もう日本の大学を世界レベルに高めるというモチベーションは日本のエスタブリッシュメントにはありません。

 でも、明治初年に近代教育が始まったとき、明治政府が目指したのは、日本の大学で、日本人教師が、日本語を使って世界標準の内容の授業を行うことでした。そして、わずか一世代でその目標を達成した。それによって日本の近代化は達成された。

 現在でも日本では、学術論文を日本語で書いて博士号をもらえます。日本語で世界レベルの学術情報が発信受信できる。これは欧米以外の国では稀有のことです。しかし、「教育のアウトソーシング」はその明治以来の伝統を否定する。日本の将来を考えると、これはきわめて危険なことです。

 母語で高等教育を行うことのできる国でしか、学術的なイノベーションは起きません。イノベーションというのは、新しいアイディア、新しい言葉から生まれるわけですけれども、僕たちは新語(ネオロジスム)を母語でしか作れない。母語から生まれた新語は、口にした瞬間に母語話者には誰でもその微妙なニュアンスがわかる。はじめて聞いた言葉なのに、意味がわかる。それは母語から生まれたものだからです。

 僕たちにとっての母語は数千年前から日本列島で暮らした人たちが口にし、書いて来た言葉です。それはすべての日本人の記憶の底に深く沈殿しています。だから、その奥底から泡が湧き出るように出てきた言葉は、新語であっても意味が理解できる。それは外国語では起きないことです。僕らが英語で新語を思いついて、口にしても「そんな言葉はない」と言われるだけです。

 何年か前、池澤夏樹さんから頼まれて、吉田兼好の『徒然草』を現代語訳したことがあります。『徒然草』なんか、高校時代に教科書で少し読んだだけで、全文を通して読んだこともないし、古文も受験以来やっていませんから、できるかなと不安でしたけれども、古語辞典を片手に現代語訳をしてみたら、これが何とか訳せた。吉田兼好は800年も前の人ですけれど、兼好法師も僕も、同じ日本語話者です。現代日本語も兼好の時代の日本語も「根は同じ」です。だから、初めて使われる新語が理解できるのと同じ理屈で、もう使われなくなった古語も理解できるということが起きる。兼好法師が言いたいことは、かなり微妙なニュアンスも含めてなんとなくわかるんです。なるほど「母語を共有する」というのは、こういうことかと思いました。

 母語話者はこの母語の数千年分の蓄積すべてにアクセス可能なのです。もう使われなくなった言葉も、まだ使われていない言葉も、そこにアーカイブされている。そこから実に豊かなものを引き出すことができる。

 村上春樹さんが長い海外生活を切り上げて日本に帰ってきた時に「英語では小説が書けないということがわかったから」と言っていましたけれど、そうだと思います。どれほど英語がうまくて、会話も文章も不自由なくても、英語を母語としてない人間には、英語のアーカイブへのアクセスがきびしく制約される。だから、英語で「まったく新しいアイディア」を語ることはきわめて困難なのです。

 日本人のノーベル賞受賞者は自然科学分野だけで25人いますけれど、これだけの数の受賞者を出している国は欧米以外では日本だけです。中国は自然科学分野では3人、台湾が2人、韓国はゼロ、ベトナムもフィリピンもインドネシアもゼロです。どこの国でも大学院レベルでは自然科学の論文は英語で書かれていると思いますが、母語で英語と同じレベルの学術情報のやりとりができる環境があるかどうかがこの差を生み出していると僕は思います。

 母語で世界最高レベルの研究教育を行うことができるような環境整備は国力を維持するうえで必須であるということはこの事実からも分かると思いますが、そういうことを言う人は今では少数派になっています。でも、今回、パンデミックで2年近く留学生の送り出し、迎え入れができなくなったことで、「教育のアウトソース」というのがいかに危ういものであるかが明らかになりました。

 学者でも、アーティストでも、科学者でも、ビジネスのイノベーターでも、それぞれの分野で世界レベルの人間をどうやって作り出すか。答えは別に難しいものではありません。子どもたちが好きなことを、好きなように学ぶことができて、自分の潜在能力を思う存分発揮できるような環境を提供すること。それに尽きます。そういう仕組みを整えておけば、誰もコントロールしなくても、世界の第一線で活躍する人間は自ずと出てきます。別にとんでもないコストがかかる事業ではありません。

 

 アウトソーシングしてはいけないものは、医療と教育以外にもあります。食料、エネルギーなどがそうです。人間が集団として生き延びてゆくために必須のもの、国の安全保障の根幹にかかわるものはそうです。それなしでは生きてゆけないものは原則的には「自給自足」をめざすべきです。自給自足は困難でしょうけれども、それをめざす努力を止めてはならないと思います。