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内田樹さんの「寺子屋ゼミ後期オリエンテーション「コロナ後の世界」(その4)」 ☆ あさもりのりひこ No.1099

「公共のために身銭を切る市民」が登場したことで近代は成立したのだとすると、「私利私欲のために公共財を盗み、公権力を私用に供する人」たちが公職を占め、統治機構を支配し、企業活動をしている社会はまっすぐ「近代以前」に退化していることになる。

 

 

2021年11月23日の内田樹さんの論考「寺子屋ゼミ後期オリエンテーション「コロナ後の世界」(その4)」をご紹介する。

どおぞ。

 

  

 コロナ後の世界がどうなるのか。今は分岐点であるというのが僕の認識です。これまで当然とされていた多くの仕組みに疑問符が付けられ、良い方に変わるか、悪い方に変わるかの分岐点に立っている。

 例えばナショナリズムはどちらに転ぶかで良くも悪くもなる。ナショナリズムの復活はグローバル資本主義を抑制するという点では良いけれども、国民国家の壁が再構築されて、世界が分断され、すべての国々が「自国ファースト」を言い立てるようになり、国際協調が進まなくなると、これは良くない。でも、世界はいまこの方向に向かっている。

 先日、名古屋で講演をした折、フロアの方から「ポストモダンの次にどんな世界がくるのでしょう?」というずいぶん本質的な質問がありました。「ポスト・ポストモダンの時代」とはどういうものになるのか。

 ポストモダンの時代は、近代を駆動してきた楽観論が失われた世界です。近代の物語というのは、ある種の進歩史観に導かれていました。人類は多少の曲折はありながらも、総じて良い方向に進み、誰もが幸福で豊かな生活を営む平和な世界に向かっているという「大きな物語」が近代の通奏低音でした。でも、ポストモダンの世界になって、その物語が否定された。代わりに登場したのが、「歴史に目標はない」「人類は別に進歩していない」というかなりニヒリスティックな歴史観でした。

 すべての人は主観的なバイアスのかかった世界しか見ることができない。他者の目から見える世界がどのようなものであるかを僕たちは知ることができない。だから、誰も自分が見ている世界こそが「客観的現実」であると主張する権利はない。このポストモダンの思想は、自分の目に見えるもの、自分が経験していることの客観性を過大評価することを戒めるという点では健全なものだったと思います。けれども、ポストモダンの思想はそれにとどまらず、さらに暴走して、「客観的現実」などというものはどこにも存在しないというところまで行ってしまいました。だから、みんな自分の好きなように「自分にとって都合のいい現実」のうちで安らいでいればいいという話になった。

 トランプの大統領就任式の時に、「過去最多の参列者が集まった」というホワイトハウスの報道官の嘘について、大統領顧問がそれは「もう一つの事実(alternative fact)」だと強弁しました。人はそれぞれ自分の好きなように世界を眺めている。そこに真偽の差はないという考え方が公的に言明されたのです。

 ナショナリズムの劣化したかたちはたぶんそういうものになると思います。「私たちには世界はこう見える」という人たちがそれぞれ異なる世界像にしがみついて、他の人たちと世界像の「すり合わせ」をするという努力を放棄する。

 となると、「ポストモダンの次」に来るのは前・近代だということになります。あり得ると思います。世界が「中世化」する。コロナ後の世界について考える時の最悪のシナリオがこれです。でも、今世界で起きていることを見ると、前近代に退行している徴候が至るところに見られます。

 前近代から近代への移行を可能にしたのは、「公共=コモン」という概念の誕生だったと僕は思っています。万人がおのれの自己利益だけを求めて行動するという「万人の万人に対する戦い」という前近代的状況では、誰も自己利益を安定的に確保することができません。弱肉強食の無法の社会では、つねに誰かに私財を盗まれ、誰かに私権を奪われるリスクに怯えながら暮らさなければならない。それよりは、一人ひとりが私権の制限を受け入れ、私財の一部を公共財に供託することで、「国家という公共」を立ち上げ、それに従うことによって、長期的・安定的に自己利益を確保する、というのが近代市民社会のアイディアでした。ホッブズもロックもルソーも、そういうロジックで近代市民社会における「公共」の必要性を根拠づけました。

 でも、今の日本社会で観察されるのは、それとは逆のふるまいです。政治家も官僚もビジネスマンも、公共財をせっせと私物化し、公権力を自己利益のために利用している。私財を投じて、私権の制限を受け入れて、それによって公共を手作りで立ち上げるというような行動をする人間は日本の指導層にはもう一人も見当たりません。他人に向かってうるさく「私財を差し出せ、私権の制限を受け入れろ」ということは要求するのに、自分の身銭を切って公共を立ち上げ、機能させようとしている人間は「公人」の中にはもうほとんど見当たらない。

「公共のために身銭を切る市民」が登場したことで近代は成立したのだとすると、「私利私欲のために公共財を盗み、公権力を私用に供する人」たちが公職を占め、統治機構を支配し、企業活動をしている社会はまっすぐ「近代以前」に退化していることになる。

 

 公共に命を吹き込み、行きすぎたグローバル資本主義や個人の貪欲を制御するためには、穏健な「人間の顔をしたナショナリズム」が必要ではないかと僕は考えています。

 ナショナリズムは国民国家という政治幻想に基づくイデオロギーです。ですから、ナショナリストは国境線の内側にいる「国民」たちについては、その全員を「同胞」として受け容れ、支援する義務を負っています。それがナショナリズムの「約束」です。日本人だというだけで、つい「ひいき」にしてしまう。そういう偏りがナショナリズムの心理的基礎をなします。だから、まずは同胞がちゃんと飯が食えているかどうかを気づかい、同胞が健康で文化的な生活ができているかどうかを心配する...というのがナショナリストの本来のあり方であるはずです。そういうナショナリストが政治指導者であるなら、たいへん結構なことだと思います。

 でも、今の日本で「ナショナリスト」と呼ばれている人たちは、「日本人をひいきにしている」わけではありません。彼らは日本人すべてに同胞的な親愛の情を抱いているわけではありません。国民を自己都合で分断して、自分の支持者、自分の味方、自分の身内を「ひいき」にして、自分の敵、反対者、他人は日本人であっても気づかわない。だとしたら、それは「ナショナリスト」という呼称には適しません。それはナショナリズムではなく、「部族主義(トライバリズム)」です。僕は、ナショナリズムという言葉を誤用して欲しくない。いまのネトウヨとか「保守派」と呼ばれている人たちは、右翼でも保守でもナショナリストでもなく、ただの「部族主義者」です。

 世界に目を向けると、安定した基盤の上に立つ国はほとんどありません。どの国もギリギリのところでバランスをとっていて、ある方向に傾くと、崩れそうなリスクを抱えています。国だけでなく、社会的なセクターもわずかな入力の変化で、大きく変質したり、瓦解したりする可能性がある。でも、それは見方を変えれば、「チャンス」でもあるわけです。これまで固定的でびくともしなかったシステムがコロナをきっかけにぐらりと揺らいだ。もしかすると、あと一押しで転がすことができるかも知れない。