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内田樹さんの「病と癒しの物語『鬼滅の刃』の構造分析(前編)」 ☆ あさもりのりひこ No.1132

予見性を備えたマンガというものが存在する。人間と世界のあり方についての深い洞察に貫かれている作品であれば、それがマンガであっても、映画であっても、小説であっても、読者や観客に「まるで今ここにいる自分のことを描いている」ような錯覚をもたらすものなのである。

 

 

2022年2月23日の内田樹さんの論考「病と癒しの物語『鬼滅の刃』の構造分析(前編)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

Twitterにも書いたけれど、ある大学から入試問題に使ったので、過去問集に採録したいという連絡があった。いったい何を使ったんだろうと思って見たら「週刊金曜日」に寄稿した『鬼滅の刃』論だった。ずいぶんとレアなアイテムを探し出して作問したものである。2020年12月に書いたものなので、何を書いたかすっかり忘れていたので、HDをサルベージして探し出して読んでみたら結構面白かったのでブログに再録。 

 

 マンガについて書くのは久しぶりである。数年前に集英社が『ONE PIECE strong words』という本を出すことになり、そのときにONE PIECE論を書いたのが最後。尾田栄一郎さんの『ONE PIECE』は世界累計発行部数4億7千万部という桁外れのヒット作品であったので、版元から「どうしてそんなに売れるのか」について理由を考えて欲しいと言われて書いた。不思議な注文である。たぶん「ただすごく売れた」というだけでは出版する側としては気持ちが片づかなかったのだろう。

 どうしてあるマンガは世界的なセールスをなしとげ、他のマンガはそうではないのか。そこには何か決定的な違いがあるはずである。それは何か。それを知りたいのは人性の自然であるし、出版人としてはビジネス上の要請でもある。

 絵がうまいとか、ストーリーが面白いとか、人物造形に妙味があるとか、セリフが聞かせるとか・・・そういう「理由」をいくら羅列しても、それだけではヒットの説明にはならない。現に、同じくらい画力があり、ストーリーテラーとしての才能がありながら、あるマンガは何億部というマスセールスを実現するが、別のマンガはそうではないからである。それどころか、同じマンガ家でも、ある作品は社会現象になるほどヒットするが、別の作品はそれほどでもない。では、『鬼滅の刃』に記録的なセールスをもたらしたファクターは何か?それを考えるのが今回の私のミッションである。

 

 前回は版元の出す本だったので、マンガのトリビアを熟知しているヘビーリーダーを想定読者にして書いた。だが、今回は「週刊金曜日」という『鬼滅の刃』と縁のない媒体である。「週刊金曜日で『鬼滅の刃』の特集をしているから買ってきて」と親の袖を引く殊勝な子どもたちがいるとも思えない。だから、今回は想定読者をがらりと変更して、『鬼滅の刃』を読んでいなくて、12月のある朝新聞の全面広告を見て、「世の中ではいったいなにごとが起きているのか?」と訝しんだ人のために書く。そういう方たちだって、なぜ『鬼滅の刃』の台詞が総理の国会答弁に引用されたり、一億部のマスセールスを記録したのか、その理由については知りたいだろう。

 

 まずは読んでいない方のためにストーリーを要約する。

 大正時代に、人食い鬼たちが出没していた。鬼に噛まれると人間は鬼になる。ゾンビと同じメカニズムである。全部食われると消滅するが、ちょっと噛まれただけだと鬼になる(これもゾンビと同じ)。これが感染症のメタファーであることはすぐわかる。死ねばそれ以上感染はさせないが、感染したまま蘇生するとスプレッダーになる。

 主人公は山中に住まう炭焼きの少年竈門炭治郎。彼の留守中、一家は鬼に襲われ、妹の禰豆子を残して一家は虐殺される。生き残った妹は「感染」しているので、わずかに人間の心を残しながら、なかば鬼化している。妹をもとの人間に戻し、家族の仇をうつために炭治郎は鬼狩りを主務とする「鬼殺隊」に身を投じ、過酷な訓練に耐えて、一人前の剣士となる。そして、人間の心を取り戻した(身体能力は鬼のままの)妹や仲間の剣士たちと手を携えて、異形の鬼たちと死闘を繰り広げる・・・という話である。

 あらすじだけ書くと、「なるほど、コロナの話だったのか」と膝を打つ人がいるかも知れない。たしかにそういう解釈も「あり」だと思う。悪性の感染症に罹患した妹を治癒するために、ワクチンや特効薬を開発する科学者たちと協力して、「ウイルス根絶」のために戦う若き感染症専門医の成長と勝利の物語・・・。たしかにそのまま『鬼滅の刃』はパンデミックの寓話として読むことができるのである。

 人獣共通感染症は出会うべきではないものが出会ったことで生まれる。ウイルスは寄生した生物の特徴を取り込んで変異する。致死性の低い「御しやすい」ものもいれば、強毒性の「手ごわい」ものもいる。何よりウイルスは厳密な意味での生物ではなく、他の生物の細胞を利用して自己を複製させる構造体に過ぎない。だから生物学的な意味では死なない。これらの特性は『鬼滅の刃』における鬼の属性とすべて一致する。

 鬼たちは繰り返し「自分たちは死なない」と豪語する。「不死」を自称し、「永遠の命」を誇る。でも、実際には剣で斬り殺されることもあるし、薬物で力を失うこともあるし、日光を浴びると例外なく壊死する。だから、鬼たちは論理的にはつじつまの合わないことを主張しているのである。しかし、それも鬼が生物ではなく構造体であると考えれば筋は通る。「寄生した生物は死ぬがウイルスというものは死なない」という命題は間違っていないからである。

 それに反して、鬼と戦う剣士=医療者たちは脆い。彼らは次々と傷つき、死んでゆく。彼らには鬼のように手足を切られてもまた生えてくるというような細胞再生能力はない。そもそも鬼を殺すための決定的な方法は存在しないのである。最初は「首を切れば」よかったのだが、ある段階から先になるとそれも通用しなくなる。切られた首がすぐに再生してきてしまうのである。抗菌薬を常用していると耐性のあるウイルスが生まれるプロセスと変わらない。

 というわけで、『鬼滅の刃』の説話構造は「鬼殺隊=医療者、鬼=ウィルス」という図式でまとめると話は簡単なのである。「なるほど、コロナ禍の渦中にあるときに、この危機をいちはやく『友情・団結・勝利』の物語に落とし込んだことが多くの読者の琴線に触れたのか」という説明で多くの読者は納得してくださると思う。

 でも、それは勘違いなのである。というのは、作者の吾峠呼世晴さんが『鬼滅の刃』の原形に当たるマンガを『少年ジャンプ』に投稿したのは2013年の話であり、『ジャンプ』への連載開始は2016年。パンデミックとの同期は完全な偶然だからである。

 傑出した作品においては、まるで現実が作品を後追いしているように思えることがある。大友克洋の『AKIRA』の舞台は翌年には東京オリンピックの開催が予定されている2019年のネオ東京(お台場を思わせる東京湾の埋め立て地に林立する高層建築群)である。でも、驚くべきはこのマンガの連載開始が1982年だということである。

 主人公金田少年は流線形のバイクを巧みに操る。『AKIRA』以後、バイクメイカ―はこの「金田のバイク」を模倣してバイクをデザインするようになった(ホンダNM4、ヤマハ・マグザム3000などがそうだ)。スピルバーグの『レディ・プレイヤー1』で、空想世界でアルテミスが走らせるのはそのものずばり「金田のバイク」である。大友克洋は38年前に2020年の東京の風景と、「復興五輪」と、スティーブン・スピルバーグを高揚させることになる21世紀の先端的マシンをマンガに描き込んでいたのである。

 すぐれたマンガは世界の未来を予見する。だから、まるで世界がマンガを模倣しているように思えるということがそこでは起きる。『鬼滅の刃』はそのような例外的なマンガなのだと私は思う。予見性を備えたマンガというものが存在する。人間と世界のあり方についての深い洞察に貫かれている作品であれば、それがマンガであっても、映画であっても、小説であっても、読者や観客に「まるで今ここにいる自分のことを描いている」ような錯覚をもたらすものなのである。では、その「深い洞察」とは何か。