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内田樹さんの「ウクライナ危機と「反抗」」 ☆ あさもりのりひこ No.1136

この反抗者たちが敗れたときに私たちが失うのは小麦やトウモロコシの輸入量とか天然ガスの供給量とかいうレベルのものではない。もっと本質的な何かが失われる。そのことを私たちはたぶん直感的にはわかっているのだと思う。

 

 

2022年3月17日の内田樹さんの論考「ウクライナ危機と「反抗」」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

ある農業系の新聞から寄稿依頼があった。ウクライナ危機と食料安全保障について書いて欲しいということだったけれど、ぜんぜん違うことを書いてしまった。

 

 ウクライナへのロシア軍の軍事侵攻が始まってから、いろいろな媒体から意見を求められた。こうして農業の新聞からも寄稿依頼がある。これは尋常なことではない。私はもちろんロシアやウクライナの専門家でもなんでもない(むろん農業の専門家でもない)。だから、2014年のクリミア併合の時も、それ以後の親露・分離派との東部での紛争の時も、誰も私に意見を求めにこなかった。クリミア併合も東部の分離活動もいずれもプーチンが行った「特殊な軍事的作戦」であり、ウクライナにとっては国難的な危機であったけれども、その当時、私の周りで「ウクライナはこれからどうなるのだろう」ということが話題になるということはなかったし、むろん寄稿依頼もなかった。それが今回はまったく様相が違う。これまでとは違うことが起きているということを誰もが感じ取っているのである。

「これまでウクライナのことに何の関心もなかった連中が急に騒ぎ出した」というふうに冷笑的にこの事態を眺めている人もいる。シリアやアフガニスタンでロシアが軍事行動をした時には、何もせず手をつかねていた人間が、今回に限ってウクライナ大使館宛てに寄附をしたりするのは嗤うべきダブル・スタンダードだと指摘する人もいる。その通りかも知れない。でも、そのような指摘は半分は当たっているけれど、半分は違っている。というのは、同じような構図の中で、同じようなプレイヤーが演じる、同じような政治的出来事であっても、そこに「これまでと違う何か」を感知すると、人はそれまでとは違うリアクションをするものだからだ。

 アルベール・カミュは『反抗的人間』という長大な哲学書の冒頭に、同じような出来事が続いても、ある時に「何かがこれまでと違う」と直感すると人間はそれまでにしたことのない行動をすることがあるという話を記している。主人の命令につねに唯々諾々と従ってきた奴隷が、ある日突然「この命令には従えない」と言い出すことがある。「今までは黙って従っていたが、さすがにこれには従えない」と言い出すのだ。この時に奴隷が抗命の根拠にした「踏み越えてはいけない一線」なるものは事前に開示されていたものではない。それを踏み越えようとする時にはじめてそこに「越えてはいけない一線」が存在していたことがわかる。そういうものなのだ。

 この独特の感じをアルベール・カミュはrévolteというフランス語で表そうとした。日本語では「反抗」と訳されるけれども、「反抗」では一義的に過ぎていて、この語の独特な、曖昧な感じを汲み尽くせない。カミュの言葉をそのまま採録しよう。

「誰かが『勝手なふるまい』をして、境界線を越えてその権利を拡張しようとする時、人がそれに抵抗するのは、『ものには限度がある』と感じるからである。その境界線をはさんで一つの権利と別の権利が向き合っており、互いを制限している。反抗の運動はそこでなされた許し難い侵犯行為に対する決然たる『否』と、反抗する人間の側の『自分はそうする権利がある』という曖昧な確信というよりは気分にもとづいている。」(Albert Camus, L'homme révolté, in Essais, Gallimard, 1965,p.423

 これは今のウクライナとロシアの関係を言っているようにも読める。でも、ここでカミュが書いているのは、領域侵犯行為に対して、人が反抗を選ぶのは、単に「もう我慢ならない」という感情に衝き動かされているだけではないということである。これを受け入れてしまうと、自分ひとりでは弁済し切れないほどのものを失うと感じた時に人は反抗を選ぶ。それがカミュの考えであった。

 自分ひとりが屈辱に耐え、苦痛を甘受すれば済むことについてなら人は必ずしも「反抗」を選ばない。「私一人が苦しめばそれで済む」と思えるのなら、権利侵害を受け入れることは心理的にはそれほど難しくない。私ならそうするかも知れない。だから、人が死を賭しても「反抗」を選ぶのは、ここで権利侵害を受け入れたら、それによって失われるのはその人ひとりの権利や自由ではなくなると感じるからである。

 カミュはこう続けている。

「人が死ぬことを受け入れ、時に反抗のうちで死ぬのは、それが自分個人の運命を超える『善きもの』のためだと信じているからである。人が自分が護っている権利を否定するくらいならむしろ死ぬ方を選ぶのは、その権利を自分自身より上に位置づけているからである。人がある価値の名において行動するのは、漠然とではあっても、その価値を万人と共有していると感じているからである。」(Ibid., p.425)

 そうだと私も思う。だから反抗的人間は孤独ではない。その反抗の戦いを通じて、潜在的には万人と結びついているからである。

 ウクライナ市民たちの勇敢な戦いの動機を多くの人は「愛国心」によるものだと説明している。そして、「愛国心は有益だ(どの国の国民もこれくらい愛国心を持つべきだ)」と考えている人たちが一方におり、「愛国心は有害だ(現に、そのせいでたくさんの人が死んだり傷ついたりしている)」と考えている人たちが他方にいる。ここには対話の余地がない。

 でも、もしいまカミュが生きていたら、ウクライナで戦っている人たちやあるいはロシア国内で投獄のリスクを冒しながら「反戦」を叫んでいる人たちは必ずしも「愛国心」からそうしているのではないと言うだろうと思う。彼らはそれよりもっと上位の価値のために戦っているのだ、と。

 愛国心のための行動と、それよりもっと上位の価値のための行動は、外見的にはよく似ている。ほとんど見分けがつかないほど似ることもある。

 戦っている人たち自身も「あなたが『反抗』を選んだ動機はなんですか?」と訊かれたら「愛国心ゆえです」と答えるかも知れない。でも、それでは、いま世界中の人たちがこの出来事をわが身に切迫したものとして感じていることの説明がつかない。私たちは他国の人の愛国心については、それがどれほど本人にとってはシリアスで必至のものであっても、それほど感動することはないからだ。

 例えば2021年の1月6日に米連邦議会に雪崩れ込んだトランプ支持者たちは主観的には「命がけでアメリカの理想を守ろうとした」愛国者だったと思う。今でも「彼らは愛国者だ」と擁護し顕彰する人たちはいるし、あるいはほんとうにそうなのかも知れない。けれども、ひとつだけ確かなのは、彼らはアメリカのためには多少の犠牲を払う気はあったが、「万人の権利」のために自己を犠牲にするつもりはなかったということである。

 私たちは他国の人が愛国心を発露しているのを見せられても、ふつうは特段の感動を覚えない。「ああ、そうですか。そんなにお国がお好きなんですか。よかったですね」とにこやかにスルーするか「愚かな。空疎な幻想に取り憑かれてしまって」と冷ややかにスルーするか、どちらかである。

 だから、いまウクライナやロシアで「反抗」の戦いをしている人たちの動機を「愛国心」だと私は解さない。それより「上位の価値」のために彼らは戦っているのだと思う。

 私たちが反抗の戦いをしている人たちから目が離せないのは、彼らがその戦いを通じて、遠く離れた、顔も知らず名前も知らない私たちの権利をも同時に守ってくれていると感じるからである。だから、彼らを孤立させてはならないと思うのである。

 たしかに不合理な話である。

 でも、この反抗者たちが敗れたときに私たちが失うのは小麦やトウモロコシの輸入量とか天然ガスの供給量とかいうレベルのものではない。もっと本質的な何かが失われる。そのことを私たちはたぶん直感的にはわかっているのだと思う。