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内田樹さんの「現代における信仰と修業」(後編) ☆ あさもりのりひこ No.1141

成熟した後にしか自分がたどってきた行程がどんなものだったかがわからない。それが成熟という力動的なプロセスの仕掛けである。

 

 

2022年3月25日の内田樹さんの論考「現代における信仰と修業」(後編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 

 身体技法の修業では、「私の身体にはこんな部位があって、こんな働きをするのか」という驚きに満ちた発見が繰り返し起こる。見出された部位やその制御法は、稽古に先立つ段階では予見されていないものであった。そもそもそのような身体部位があることさえ知らぬままに稽古をしているうちに獲得された身体部位の感知と制御の技法である。それを「鍛える」とか「強める」ということははじめから不可能なのである。「そんなこと」が人間にできるとは思ってもいなかったことを自分ができるようになるというのが修業の順道なのである。だから、稽古に先立って「到達目標」として措定されたものは修業の途中で必ず放棄されることになる。そもそも修業とは「そんなところに出るとは思ってもいなかった所に出てしまう」ことなのである。

 なぜかこのようなアプローチを現代社会は「非科学的」として退ける。少なくとも「どんな結果が出るかわからない研究」に科研費は下りない。修業的アプローチの有効性を信じるのを止めてしまったことが日本の学術的生産性の急激な低下の一因だと私は思っているが、それはまた別の話である。

 

 現代における信仰共同体について論じて欲しいという依頼の原稿だったが、予備的な考察だけですでに紙数が尽きてしまった。少し急ぎ足で論点をまとめておきたい。

 信仰を安定的に基礎づけるためには成熟と修業のふたつが必要だというのが私の経験的知見である。それはどの宗教についても変わらない。

 現代日本の信仰共同体はその成員たちの霊的成熟と実効的な修業システムをバランスよく整備しているだろうか。私にはわからない。もちろん、どの信仰共同体もそれぞれのしかたで、教学の学習と儀礼の実修は行っているはずである。だが、「霊的な意味での成人になること」と「幽かなシグナルを感知し、適切に対応する能力を涵養すること」を目的とした効果的なプログラムを有しているかどうかについては、私はほとんど知るところがない。

 前にキリスト教学校教育同盟に招かれて講演したときに、フロアからミッションスクールにおける日常的な宗教教育のかたちについてヒントを求められた。そのとき私は「チャペルの掃除をさせたらどうですか」と答えた。祈りの場を清浄なものに保つことが宗教実践の基礎中の基礎だと思ったからである。

 当然ながら、人間は汚れた場所では祈ることができない。祈りとは幽かなシグナルを聴き取ろうとする構えのことである。祈るためには五感の感度を最大化しなければならない。だが、汚れた、騒がしい、悪臭が漂う場所で私たちは五感を敏感にすることができない。感覚の精度を上げることによって不快が増す環境において私たちは「祈る」という構えを取ることができないのである。

 だから、「祓い、浄める」ことが宗教的な行の一番基本に来るというのは当たり前のことだと私は思っている。信仰の起源的なかたちが五感の限界を超えるものの切迫を感知する経験である以上、祈りの場はその信仰の発生の原風景を繰り返し再演するためのものでなければならない。そのためには何よりも人間がその五感の感受性を最大化し、限界を超えるところまで精度を上げることができるような低刺激環境を整備することが必要だと私には思えるからである。だから、「チャペルを掃除する」というのは、学生生徒たちに「祈る」とはどういうことかを身体的に実感させるために有用だろうと思ったので、そうお答えした。「祈り」の身体実感がわからない人間には宗教の意味を理解させることはできない。

 

 武道の道場での作法も同じことである。稽古の前に私たちは道場を掃き清め、拭き浄め、稽古が終われば道場をまたていねいに浄め、窓と扉を閉めて立ち去る。道場は稽古以外には使わない。一日置いて道場の扉をあけると、ひんやりとした、粒子の細かい空気に肌が触れる。それはチャペルの扉を開けたときに感じる皮膚感覚とよく似ている。

 私が自分の道場をどうしても欲しかったのは、公共施設である体育館の武道場があまり清潔ではなかったからである。私たちが入ると、直前まで使っていた団体が散らかしたままのことがあった。ほうきで掃いて、雑巾がけをしても、畳の汚れや細かい埃までは取りきれない。床が十分に清浄でないと、私たちの身体は微妙に防衛的になる。汚れた床の上を裸足で歩くときに、私たちはできるだけ床との接触面を減らそうと足裏を縮めて歩くようになる。悪臭がすれば鼻孔を収縮する。隣の部屋からうるさい音楽が聞こえてくれば耳を塞ぐ(実際に市の武道場を借りているときは隣室がダンス教室だったので、絶え間なく大音量の音楽が聞こえてきた)。環境そのものが五感の感度を下げて入力に対して鈍感になることを要求するような場所で武道の稽古をすることには何か本質的な無理がある。

 信仰を得たものが「祈り」の場を作ろうと思ったときに課す条件は「清浄と静寂」ということに尽くされるだろう。武道の修業の場合も求めるものはそれと変わらない。

 

 最後に個人的なことを書く。レヴィナスの哲学と合気道修業の間に二十代の私が「同じもの」を感じたまま、その内在的連関を言葉にできなかったと書いたけれど、四十年も同じことを繰り返していると、さすがに少しはわかってきたことがある。

 それはこのどちらもが人間の生身感覚の上に構築された体系だということである。

 レヴィナスの弁神論は一見すると徹底的に理知的な構築物であり、机上で思弁的に絞り出されたように見える。けれども、それがキーワードで「幼児」と「成人」という人間の生物学的な成熟プロセスをベースにして構想されたものであることを見落としてはならないだろう。

成熟を果たした人間にしか「成熟する」ということの意味はわからない。幼児が事前に「これから、こんなふうな能力や資質を開発して、大人になろう」と計画して、そのようにして起案されたロードマップに基づいて大人へと自己形成するということはありえない。幼児は「大人である」ということがどういうことかを知らないから幼児なのであり、大人は「大人になった」後に、「大人になる」とはこういうことだったのかと事後的・回顧的に気づいたから大人なのである。成熟した後にしか自分がたどってきた行程がどんなものだったかがわからない。それが成熟という力動的なプロセスの仕掛けである。

 そして、なるほど私は成熟を遂げたのだという成熟のありありとした実感を最終的に担保するのは理知や概念ではなく、生身なのである。幼児のときには見えなかったものが見え、聞こえなかったものが聞こえ、判別できなかった香りや味がわかり、かつては感知できなかったものの接触や切迫がありありとわかること、それが成熟するということである。霊的成熟とは徹底的に身体的な、誤解を怖れずに言えば、生物学的な経験なのである。

 レヴィナスは「生身を持つもの」にしか真の信仰を担うことはできないと教えたのである。20世紀の戦争と粛清と強制収容所の痛ましい経験からレヴィナスが学んだのは、悪とは「スケール」のことだということであった。生身の人間の尺度を超えたスケールで「人間的な社会」や「人間的価値」を作り出すことはできない。それがわかったときに、レヴィナス哲学と武道の内在的な関連が私にも少しだけ腑に落ちたのである。

 信仰が根づき、開花するのは、結局は生身においてである。信仰にかかわるあらゆる理説あらゆる実践の適否は、生身の身体によってしか検証され得ない。だから、身体を持たない信仰主体は存在できないのである。自明のことだが、備忘のためにここに記しておく。