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内田樹さんの「危機の危機(中編)」 ☆ あさもりのりひこ No.1144

僕たちは「消えてしまったもの」のことは、非情にも記憶にとどめません。

 

 

2022年3月28日の内田樹さんの論考「危機の危機(中編)」をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 一九世紀のフランスの小説を読んでいるときに、「この男、どうやって食っているんだろう?」ということがふと気にかかることってありませんか。何も仕事していないのに、サロンに出入りして、人妻に恋をしたり、詩を書いたり、決闘したりしている男たちがいますでしょう。記述があまりに自然なので、「どうやって食っているんだろう?」といった散文的な問いが前景化しなかっただけで、実は彼らはランティエだったわけです。

 そういう諸君が文学作品を書いたり、その登場人物であったり、あるいはその読者であったり、批評家であったりした。彼らが、ヨーロッパにおける「何の役にも立たない」ような各種の知的ムーブメントをほとんど独占的に牽引していた。そういう社会的な階層が長期にわたって存在していたのです。それが第一次世界大戦の勃発と同時に消滅します。インフレで貨幣価値が一気に下落したからです。もう誰も公債の金利では生活できなくなった。ロシア国債なんか革命で紙くずになってしまったわけですから、その金利で徒食していた人々は一夜にして路頭に迷うことになった。わずかな期間のうちに、全ヨーロッパからランティエという社会階層そのものが消滅してしまった。

 このランティエの消滅こそが1910年代の危機の実相ではないか。僕は鷲田先生と話しながら、ふとそう想像したのです。200年間にわたって、この階層の享楽的生き方を可能にしてきた経済的基礎そのものが崩落した。そのときに彼らが感じた存在論的不安が「危機」として認識されたのではないか、と。なにしろ、彼らはそれ以外の生活の仕方を知らないままに二代、三代と徒食してきたわけですから。明日からどうすればいいか、ぜんぜんわからない。生きるノウハウを知らないのです。持っているのは、芸術や学問とかについてのトリヴィアルな知識や、服装コードや食卓マナーや、密室トリックを破る推理力のようなまるで非実学的なことだけなんですから。

「危機」という言葉に時代を画すほどのインパクトがあったとするなら、それが頭の中でこしらえあげた概念であるはずがない。実生活の破綻や身体的に切迫してくる不安がなければ、人間は「危機」というような言葉を取り上げません。僕たちはつい「精神の危機」「諸学の危機」というようなリファインされた言葉に惑わされがちですけれど、1910年代の危機の実相は、集団的に経験された「生活の危機」のことではないかと僕は思います。

 でも、ランティエたちは「精神の貴族」ですから、「明日の米びつが心配で夜も眠れない」というようなことは口が裂けても言えない。それに、そんな泣き言を言っても誰も取り合ってくれやしない。だから、「これはヨーロッパの精神的危機だ」というふうに、眉間に縦じわを寄せて、あたかも人類史的な緊急事態であるかのように言い換えてみた。そういうことじゃないかと思います。

 

 カズオ・イシグロに『日の名残り』という話があります。これは一九三〇年代の話。大戦間期に、イギリスの貴族がドイツやフランスの要人たちとひそかに連携して、戦時賠償で苦しんでいる敗戦国ドイツを救おうとする。そういう古いタイプの政治家たちが集まって密談しているところに、アメリカからの来客である上院議員が登場します。彼は集まった上品な政治家外交官たちに向かって、冷たくこう言い放ちます。

「ここにおられる皆さんは、まことに申し訳ないが、ナイーブな夢想家にすぎない。(・・・)上品で、正直で、善意に満ちている。だが、しょせんはアマチュアにすぎない。」

「諸君の周囲で世界がどんな場所になりつつあるか、諸君にはおわかりか?高貴なる本能から行動できる時代はとうに終わっているのですぞ。ただ、ヨーロッパにいる皆さんがそれを知らないだけの話だ。(・・・)ヨーロッパがいま必要としているものは専門家なのです。」(カズオ・イシグロ、『日の名残り』、土屋政雄訳、早川書房、2001年、147-8頁)

 これからは軍事と金のリアルポリティクスの時代である。もう、あなたたちのような貴族同士の信義とか友情とか、そういうことで外交ができる時代は終わった。アマチュアは政治の世界から出ていきなさい。上院議員はそう一喝します。

 僕は『日の名残り』というのは、執事とメイドの控えめな恋の話だと思って気楽な気分で読んでいたのですが、実はなかなか深い政治史的転換が物語に副旋律を奏でていたのです。たしかに1930年代までは、国境を越えた、「文芸の共和国」的な貴族たちの連携が存在していました。

 それは例えば、ジャン・ルノワールの『大いなる幻影』の主題でもありました。この映画では、ドイツの貴族であるラウフェンシュタイン大尉は、同国人であるがさつなドイツ兵士よりも捕虜である上品で教養深いド・ボアルデュー大尉により深い連帯感と親しみを感じます。ドイツとフランスというふたつの国民国家間の対立よりも、もっと深く、越えがたい溝が貴族と大衆の間に存在する。だから、貴族たちは国境を越えて連帯すべきだというのは、「万国のプロレタリア団結せよ」というマルクスの『共産党宣言』の対抗命題として当然存在してよかったものなのです

 僕たちは「消えてしまったもの」のことは、非情にも記憶にとどめません。国際共産主義運動はその後歴史的事実になったので、僕たちはそのようなものが存在し得ることを理解できますけれど、「国際的な貴族たちのネットワーク」が存在し得ることには理解が届かない(実際に存在したものなのに)。

 ともあれ、そのような国際的なネットワークに対して歴史的使命が終了したという宣告が下され、それに代わって、「貨幣と軍事力」しか信じないリアリストたちが登場してくる。たしかに、『日の名残り』のアメリカ人上院議員のようなタイプのタフガイでなければ、アドルフ・ヒトラーのような男には対抗できなかったのかも知れません。そういう意味では、レーニンも、ムソリーニも、スターリンも、毛沢東も、20世紀的な「大衆」の力に乗って出てきた政治家たちであるという点では「新興階層」の人々なのです。彼らはまさに旧時代の貴族たちをその「ノブレス・オブリージュ」のモラルごと蹴散らして登場してきたのです。

 貨幣と軍事力、それがこれからは国際政治の力学を決定してゆくのだという新たな社会観の前に旧世界の貴族やランティエたちが膝を屈します。オルテガが『大衆の反逆』で描いたのは、まさに蹴散らされる側の貴族階級からの、時勢の変化に対する哀惜と静かな怒りです(だから、この哲学書にただよう空気はどこかしらチェーホフの『桜の園』に似ています)。自分たちの劇場の桟敷席に大衆が入り込み、自分たちのリゾートに大衆が土足で踏み込んでくるのを手を拱いて見るしかないかつての貴族やランティエたちのどす黒い怒りと苦しみ。これまで彼らが独占してきた芸術や学芸や政治や科学や冒険や快楽が、リアルな実力を背景にした新興階層に次々と奪われていく。その救いのない被侵略感と被略奪感がおそらく「危機」という言葉を基礎づけた生々しい身体実感ではないか。僕はそんなふうに想像するのです。

 現に、先に名を挙げたヴァレリーやハイデッガーやフッサールやオルテガに共通するのは「精神の貴族性」です。「精神の貴族性」が脅かされていると感じた人たちがその時期に一斉に「危機論」を語り出した。彼らが守ろうとしたのは、具体的な制度や理論や技術ではなく、先端的なものを創り出す行為そのもの、生成的なプロセスだったのだろうと僕は思います。今、目の前で「何か新しいもの」が生まれ出ようとしている、「前代未聞のもの」が誕生しようとしている、劇的なブレークスルーが、今ここで起きようとしている、そういう生成的なものに対するセンサーの感度のよさこそがランティエたちの集合的特技でした。彼らの階層的な没落によってそのセンサーが一気に劣化してしまうのではないか、彼らは自分たちの生計について心配するのと同時に、そのような人類史的責務の担い手が彼らの没落とともに消え去ることを懸念してもいたのです。たぶん。