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内田樹さんの「日本は帝国の属領から脱却できるか?」(その2) ☆ あさもりのりひこ No.1167

人が「反抗」するのは、それが自分個人の運命にのみかかわることではないと感じた時です。

 

 

2022年4月21日の内田樹さんの論考「日本は帝国の属領から脱却できるか?」(その2)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

―― その予想を裏切ったのが、コロナとウクライナだったわけですね。

 

内田 そうです。その前にブレグジットとトランプの「アメリカ・ファースト」がありましたから、予兆があったと言えばあったのです。加えて、コロナ禍では国民国家の境界線が強固な「疫学上の壁」であることが明らかになりました。2020年初めにイタリアが医療崩壊に陥った時、医療支援を求められた独仏は自国民を優先して、医療資源の輸出を禁じました。同じ感染症に罹患しながら、国境線のこちら側の人は生き、あちら側の人は死ぬということが起きた。感染症についてはシェンゲン協定は無効だったのです。そこに今回のウクライナ戦争が起きて、「国民国家は意外にしぶとい」ということを証明した。

 

―― 帝国化の趨勢は続くが、国民国家は簡単には消えないとなると......

 

内田 今後の世界では帝国の「併呑」志向と国民国家の「独立」志向がせめぎ合うことになると思います。そこに帝国以外の軍事同盟や経済協力機構も絡んでくる。ISやアノニマスのような非国家アクターも絡んでくる。

 今回の戦争でも、欧米諸国は国民国家として、EU加盟国として、NATO加盟国として、国連加盟国として...などなどそのつどの政治課題ごとに軸足を置く政治単位を切り替えています。このやり方がこれからのデフォルトになるのではないかと思います。つまり、今後の国際社会では、「帝国」、軍事同盟、経済協力機構、国民国家、非国家アクターなどいくつかの政治単位が重層的に重なり合いながら、それぞれのロジックで動くということになる。政治課題ごとに国民国家の為政者たちは、どの政治単位に軸足を置いて判断し、行動するのか、それを選択することになるでしょう。

 これまでなら国際政治の基本的なアクターは国連に参加している193の国民国家であり、それぞれが自国益の最大化をめざしているというのがゲームのルールでした。ですから、どういう文脈で、どんな出来事が起きているのか、これからどうなるのかをある程度は予測ができました。でも、これからはルールがだいぶ複雑になってきた。今後の国際政治は変数が増えたせいで、複雑なパワーゲームになります。これまで以上に頭を使わないと生き残れない。

 日本は島国ですから、僕たちは同質性の高い国民国家であることが国のかたちとして自然であり、永遠にそうだと信じ込んでいます。しかし、世界の多くの国民国家は「その方が集団として生き残る可能性が高い」という理由で採用された暫定的な政治的装置にすぎません。政治単位は一定不変のものではなくて、歴史的条件が変われば膨張したり縮小したりする。現に、今から80年前、日本が「帝国」を志向していた時には、千島から内蒙古まで、シンガポールからインドネシアまでが「皇国の版図」でした。

 

―― 今回と同じような戦争や紛争は過去にもありました。しかし、ウクライナ戦争には世界的な関心が集っています。これはなぜだと思いますか。

 

内田 ポイントは、「政治的正しさ」(ポリティカル・コレクトネス)です。今回、ゼレンスキー大統領は国際社会に向けて「われわれは、自国領土や市民の自由と権利を守っているだけではなく、この戦いを通じて、世界中の人々の自由と権利をも守るためにも戦っているのだ」というメッセージを発信しました。ウクライナは自国の独立や国益より「上位の価値」を守るために戦っていると訴えた。そして、そのメッセージには十分な説得力がありました。ウクライナに世界中の市民から支援が殺到したのは、そのためだと思います。

「イラクやアフガンやシリアでの主権侵害には見向きもしなかった人々がウクライナに限って支援するのはダブルスタンダードだ」と批判する人たちもいます。でも、彼らが見落としているのは「今回に限って違うことが起きた」ということです。

 これまでの紛争では被害国は「自分たちの領土が侵されていること、生存や自由や権利が脅かされている」ことを訴えはしましたけれど、それを守ることがそのまま「万人の生存や自由や権利を守る」ことに通じるというメッセージを発信することはできなかった。ですから他国の人々は「気の毒に」とは思っても、侵略されている人たちが「われわれのために戦っている」という印象を持つことはなかった。今回、ウクライナはこれまでの被害国と質の違うメッセージを発信することに成功しました。

 世界の人々は「われわれは一国の領土や国益より『上位の価値』を守るために戦っている」というメッセージを国際社会に発信できなければ、相当な軍事力の差があっても、簡単には戦争に勝てないということをロシアの失敗から学習したと思います。

 ロシアはNATOの東方進出で自国の安全が脅かされたという「戦争理由」を掲げました。でも、これはいかにプーチンにとって切実だったとしても、ロシアの国益にしかかかわりがない。ロシアを超える「上位価値」のための戦いであるというメッセージをロシアは発信できませんでした。国内向けのプロパガンダとしてはそれで十分でしょうが、国際社会の共感を得ることができなかった。ですから、ロシアの被害者意識がどれほどリアルであっても、その憤りに共感してくれる人を広く国際社会に見出すことができなかった。

 アルベール・カミュは『反抗的人間』の冒頭に、それまで主人の命令に唯々諾々と従っていた従順な奴隷がある日「その命令だけは聞けません」と抗命することがあると書いています。それは主人が「踏み越えてはいけない一線」を越えたと判断したからです。カミュはそのような抗命のことを「反抗」と呼びます。

 人が「反抗」するのは、それが自分個人の運命にのみかかわることではないと感じた時です。自分一人が苦痛に耐え、屈辱を甘受すれば済むということについて、私たちはそれほど激しくは抵抗しません。どれほど理不尽な扱いをされても、「自分ひとりが苦しむだけで済むのなら」と受け入れるのはそれほど心理的には難しいことではないからです。しかし、ここで自分が退いてしまうと、自分ひとりでは弁済できないほど巨大な債務を他の人々が背負うことになると思うと、黙って引き下がるわけにはゆかない。それまで黙って「長いものに巻かれていた」人が「長いもの」に対決するようになる。

 カミュはこう書いています。

人が死ぬことを受け入れ、時に反抗のうちで死ぬのは、それが自分個人の運命を超える『善きもの』のためだと信じているからである。......人がある価値の名において行動するのは、漠然とではあっても、その価値を万人と共有していると感じているからである。」

「反抗的人間」はその戦いを通じて、潜在的には万人と連帯しています。だから反抗的人間は決して孤独ではない。今回、僕たちがウクライナ戦争から目を離せないのは、名前も顔も知らないウクライナの市民たちのうちに「反抗的人間」の相貌を見るからです。

 ゼレンスキー大統領は自分たちがどれほど非道な暴力にさらされているかをあきらかにすることを通じて、ウクライナの「反抗」の戦いには「政治的正しさ」があるということを訴えるものでした。その点では自分たちが「被害者だ」と言い続けながら、「政治的に正しいふるまい」の実例を一つも示すことができないプーチンに発信力で勝った。

「ポスト・トゥルースの時代」になってからは「政治的正しさ」という語そのものが嘲弄的なニュアンスでしか用いられなくなっていました。もう賞味期限が切れて、歴史のゴミ箱行きだと思われていた。ところが、今回は「政治的正しさ」が戦争の勝敗を分けるほどの威力を発揮した。

 

「正義と公正」のために戦う人間なんかいやしない。みんな自己利益のためだけに戦っているのだというシニシズムが支配的だった時代だと思っていたら、意外にもウクライナの市民たちは「正義と公正」を掲げて国際社会のモラルサポートを勝ち得た。「きれいごと」の現実変成力の大きさを証明した。