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内田樹さんの「『複雑化の教育論』をめぐるロングインタビュー その1」(前編) ☆ あさもりのりひこ No.1176

戦前は「教育勅語」によって国家が公教育に介入して、「天皇ために死ぬ国民」を制度的に量産しました。それによって日本は数百万の国民を失い、国家主権も国土も失いました。間違った教育が日本を滅ぼした。

 

 

2022年6月6日の内田樹さんの論考「『複雑化の教育論』をめぐるロングインタビュー その1」(前編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

――『複雑化の教育論』のもととなった講演から約1年。この間に、教育関連で気になった出来事は?

 

 いろいろと気になる報道はありますが、とりわけ大学教育が危機的であることが気になります。例えば、「大学ファンド」制度。認定を受けるには年3%の事業成長を大学は国に約束しなければならないという方針が話題になりました。大学に「稼ぐ」ことを求めて、稼ぎによって格付けするということになると、教育研究の方向が短期的な利益を出すことに限定されるし、教員の労働もさらに過剰になる。あらゆるレベルで教員が労働過剰になっているせいで、教員のなり手が減っていることも深刻な問題です。

 

――公教育が危機にさらされているように感じます。オルタナティブな選択をする保護者も増えていると聞きます。

 

 公教育にはその時々の支配的な政治イデオロギーが深く関与するというのは日本の現実です。自治体の首長が変わると、地域の教育ががらりと変わるということが現に起きています。 

 それに対して、私立学校には建学の精神や独特の校風があって、教育内容が時の支配的な政治権力に直接影響されるということには抑制がかかります。ですから、保護者が政治の過剰を嫌って、子どもたちを私立学校に進めようとするとしても、それはしかたのないことだと思います。

 ただ、私立学校で気になるのは、どうしても同質性の高い生徒たちが集まってしまうということです。学力や出身階層について同質性の高い級友たちと、中高一貫6年間、あるいは小学校からの12年間を過ごすということは、子どもの成長にとってあまりよいことではないと僕は思います。子どもは成長期にはできるだけ多様な出自の、多様な考え方をもつ友人と出会った方がいい。その方が成熟してゆく上ではよい環境だと思います。それに、私立に通わせるためにはそれなりの経済的な余裕が要ります。

 個人的には、他にもいろいろ選択肢があります。「学校へ行かないで、高卒認定試験を受ける」というのもあるし、「通信制などのオルタナティブスクールに行く」というのもあるし「いっそ海外に行く」というのもあります。そういう選択は個人の前には開かれています。ただし、それはあくまで個人レベルでの問題解決であって、制度的な問題の解決にはなりません。それに、進学について多様な選択肢を享受できるのは、ここでもやはり親に経済力がある場合です。貧しい家の子どもには、それほどの選択肢はない。だから、やはり公教育の再建が急務だと思います。

 

――公教育の危機は、どのような要素からの影響が大きいのでしょうか。「政治」と「マーケット」という2つのファクターが日本の公教育を壊している。それは間違いないと思います。

 

 教育、医療、行政、司法などの制度は共同体が存続するために不可欠のものです。ですから、とにかく安定的に運営されていることが最優先します。政体が変わろうとも、経済システムが変わろうとも、これらの制度はそういう社会的変化とはかかわりなく継続的に管理・運営されなければならない。政権交代したからとか、株価が下がったからとかいうことで教育や医療の制度が軽々に変わっては困る。

 でも、政治とマーケットはそういう安定的な制度が社会内に存在することそれ自体に対して敵対的です。「変化しないもの」を許容しない。それが政治とマーケットの本質的な傾向です。とりわけ政治家は政治過程から相対的に自律的に機能している制度というのが嫌いです。ですから、「改革」を掲げる政治家はまず行政、医療、教育に手を突っ込みたがる。そして、わずかな社会的変化に即応して「ころころ変わる」制度に変えようとする。それが正しいと信じているんです。でも、選挙があるたびに一朝にして前の制度が放棄されて、また新しくなるというようなことは医療でも教育でも行政でも、本当はあってはならないことなんです。

 一方、マーケットが医療や教育に首を突っ込んで来るのは、資本主義が限界に来て、もう金儲けのための「フロンティア」がなくなったからです。医療や教育は「それなしでは集団が維持できない制度」ですから、どれほど制度をいじりまわしても、機能不全にしても、破壊しても、最終的には税金であれ私財であれ、誰かが金を出してその制度を維持しようとします。ビジネスマンが医療や教育に首を突っ込むのは、それが絶対安全な「金儲け」の機会だからです。

 教育と政治がかかわりを持つことはなかなか抑制できません。明治からあと、近代学制において、学校教育は「国家須要の人材」を育成するという国家目的に基づいて制度設計されていました。近代国家を立ち上げ、維持するために必要な人材を育成するという考え方自体は間違っていないと思います。ただ、その場合でも、長期的な視点で「どのように国力を高めるか」を考えるべきです。

 多様な才能が、百花繚乱的に花開くような仕組みを作るというのが長期的には国力向上に最も効果的だと僕は思います。でも、そういう仕組みでは、教育現場に大きな自由裁量権を与えなければならない。反権力的、反体制的であることを恐れない元気のよい若者が輩出してしまう。ですから、統治コストの最少化を優先的に考える政治家はそういう仕組みを採用しません。そうではなくて、たまたまその時に政権の座にある人間が、政権を安定させ、自分たちの支配を長期化するために、政権の安定のために「都合のよい人間」を作ることを学校教育に求め出します。上位者に無批判に従う、批判力のない、「イエスマン」を量産することを学校に命じてくる。そうなると、短期的には統治コストは低くなり、政権は安定しますが、次第に国力は衰えてくる。国は貧しくなり、国際社会でのプレゼンスが低下し、文化的生産力も衰える。それは世界のどこの国でも同じことです。

 だから、学校教育においては、「国家須要の人材とは誰のことか?」という根源的な問いを繰り返し問わなければならない。具体的に言えば、そのときたまたま政権の座にある政治家が、自分にとって都合のよい国民を「国家須要の人材」であると定義することをどうやって防ぐか。それが公教育にとって死活的に重要な問題だと思います。

 

 戦前は「教育勅語」によって国家が公教育に介入して、「天皇ために死ぬ国民」を制度的に量産しました。それによって日本は数百万の国民を失い、国家主権も国土も失いました。間違った教育が日本を滅ぼした。この前例を徹底的に反省して、二度と政治が教育に介入しないような自律的な仕組みを作るという決意から戦後教育は始まりました。けれども、その時にあったような緊張感が今の日本の学校教育にはもうまったく見ることができません。