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内田樹さんの「『複雑化の教育論』をめぐるロングインタビュー その1」(後編) ☆ あさもりのりひこ No.1177

大人たちは、親も教師も、子どもたちに高い付加価値を付けて、労働市場に送り出すことが学校教育の目的だと心の底から信じている。その思い込みをどこかで引き剥がさないといけない。でも、どれほど言葉を尽くしても、たぶんわかってもらえないでしょう。

 

 

2022年6月6日の内田樹さんの論考「『複雑化の教育論』をめぐるロングインタビュー その1」(後編)をご紹介する。

どおぞ。

 

 

 ビジネスからの学校教育への介入も、政治の介入同様に、決してあってはならないことです。産業界はとにかく「高い能力を持ち、安い賃金で働き、上位者に逆らわない人間」を量産しろと言ってきます。これは営利企業である以上当然の要請です。でも、それはあくまで彼らの短期的な利益のために過ぎない。そういう人材がほんとうに必要ならば、企業内に教育機関を作って、自分たちがコストを負担して教育を行えばいい。でも、彼らは企業で人材育成コストを負担する気がありません。教育コストはすべて公教育に「外部化」しようとする。税金を使って自分たちに都合のよい人材を育成させようとする。「コストの外部化」は資本主義企業の基本ですから、彼らがそうすることを防ぐ理屈はありません。僕らにできるのは、「マーケットは学校に口を出すな」と繰り返し言うことだけです。

 政治の介入に関しては親たちも結構ナーバスになりますが、マーケットの介入については、保護者たち自身が骨の髄まで「資本主義的マインド」になっているので、「マーケットが介入することのどこが悪いのか?」と不審顔をされることがあります。教育というのは子どもに「付加価値」を付けていって、労働市場で高く売るためのものでしょう...と本気で思っている保護者は少なくありません。企業が望むような人材に育て上げることを学校教育に求めたりする。そういう人たちが「教育投資」というような言葉を平気で使う。マーケットのロジックや用語は親たちにも、子ども自身にも入り込んでしまっています。

 政治とマーケットの介入をどうやって遠ざけて、公教育を自律的なものにするか。それが喫緊の課題なのです。でも、これはほんとうに困難な課題だと思います。

 というのは、公教育への政治の介入を押し戻すためには、政治の介入が必要だからです。教育現場のフリーハンドに任せて、政治は教育に介入しないということを決定するためには、そういう政治決定を下す必要があります。「公権力の介入を排する」ためには「公権力の介入を要請する」という矛盾したことをしなければいけない。

 だから、「政治の変化に期待する」というのは、学校教育にとっては諸刃の刃のリスクがあります。たしかに政治の変化がないとなかなか学校教育の自律性は回復できない。でも、政治の変化に期待するということは、政治の公教育への介入を受け入れるということです。僕たちはこのジレンマに苦しまなければならない。

 マーケットの介入を防ぐことは、今の日本ではもう不可能だと思います。大人たちは、親も教師も、子どもたちに高い付加価値を付けて、労働市場に送り出すことが学校教育の目的だと心の底から信じている。その思い込みをどこかで引き剥がさないといけない。でも、どれほど言葉を尽くしても、たぶんわかってもらえないでしょう。

 僕らにできることは、今の教育の現実を客観的に、ありのままに提示して、「今の教育はこんなふうになっています。このままでは日本はただ衰退するだけです。このままでいいのですか? これをどうしたらいいんでしょう?」と問いかけ、みんなで知恵を出し合うしかない。誰か力のある人に「正解」を出してもらって、それに従うというわけにはゆきません。市民全員が徹底的に「学校教育はいかにあるべきか」と問い続けなければ話は始まりません。公教育をここまで破壊するのに何十年もかけたわけですから、これをまた再建するためには官民一体となっても同じだけの歳月がかかると思います。

 

――「格差社会」が問題視されて久しいですが、社会格差や学歴社会など、学校教育と絡めてどう見ていますか。

 

 学歴に対する過剰な意味付けは今しだいに弱まっている気がします。子どもたちが有名になったり、お金を稼いだりするためのキャリアパスはいろいろと用意されていますから。

 僕が子どもの頃、日本がまだ貧しかった時代は、貧しい家の子どもたちがキャリアを形成するためには高学歴しか手立てがありませんでした。プロ野球選手になる、歌手になるといったキャリアパスはよほど例外的な才能のある人にしか開けていなかった。キャリアを形成する上で一番フェアに開かれていたのが学歴でした。だから学歴社会になった。

「勉強さえできれば、何とかなる」というのが戦後日本の貧しい家の子どもたちにとってほとんど唯一の希望でしたから、学歴偏重になったことはある意味仕方がなかったと思います。もちろん、子どもたち一人一人に先天的な能力差がありますから、それだって決してフェアな競争ではないのですけれども、それでも家が貧しくても、身体が弱くても、学歴社会においては競争することができた。そういう点ではフェアでした。「学歴社会」は敗戦で貧しくなった日本社会が民主主義を採用した以上、必然的に登場してきたものだったと思います。

 逆に、今は学歴の重みがしだいに軽くなっています。理由の一つは、多くの職業が世襲になったせいだと思います。政治家も世襲、経営者も世襲、芸能人も世襲。社会の上層部を占める職業ほど世襲が増える。「家業」を受け継ぐ子どもはキャリア形成では圧倒的なアドバンテージがあります。今ではもう「勉強ができる」というだけでは手が届く地位が限定されてきた。

 学歴社会でなくなってきたというのは、別にそれで何か「よいこと」が起きたわけではありません。むしろ、生まれた段階でキャリアパスの割り当てが終わっていて、個人的努力で這い上がることのできる範囲が狭くなったということです。それだけ社会的流動性が失われて、階層が固定化したということです。

 学歴が軽んじられるようになったもう一つの理由は「反知性主義」が広まったせいだと思います。「勉強なんかできてもしょうがない」ということを声高に言う人たちが、社会の上層部に増えてきた。「オレは勉強なんかできなかったけれど、こんなにえらくなった。だから学校の勉強なんか意味がない」ということを誇らしげにいう人がどんどん増えてきた。

 戦後日本が学歴偏重であったのは、もちろん今言ったように「キャリアをめざす」ためには高学歴を手に入れることが合理的な道筋だったという事情もありますけれど、それと同時に「知性と教養」を高く評価する「教養主義」も大きくかかわっていたと思います。

 僕は子どもの頃には、かなり真面目に勉強をしました。でも、それはいい大学を出て、いい会社に行って、出世して、高い給料をもらうというような生臭い目的のためではありません。そういう「立身出世」は僕の場合は勉強のインセンティブではなかった。僕が勉強を一生懸命やっていたのは、いい学校に行って、すばらしい先生に就いて、レベルの高い勉強をして、学友たちと熱く議論して...という教養主義的な動機にドライブされていたからです。そういう子どもは決して少なくなかったと思います。別に出世したり、金儲けをしたいから勉強するのではなく、勉強して広い知識や深い教養を身に着けたいという子どももたくさんいました。だから、受験勉強そのものは「無意味だ」と思いながらも、これを通過すれば、「アカデミア」に参入できると自分に言い聞かせることができた。

 いまは、学校での勉強が「ハイレベルの知性の場」に参入するための足場だと考えている子どもはきわめて少数ないんじゃないかと思います。受験はただの「格付け」のための競争であって、勉強で高いスコアをとることがその先の「アカデミア」への参入につながり、それこそが勉強することの目的だというふうに考えている保護者も子どももほとんどいないんじゃないでしょうか。

 学校教育がただ選抜と格付けのためにあるのだと思ってしまうと、あとは競争で相対的に優位に立つことしかすることがない。競争相手を1人でも減らせば自分が有利になる。自分の学力を上げることよりも、周りの競争相手の学力を下げることの方が、費用対効果がよいですから、学校教育を格付けに使うと、子どもたちの学力はどんどん下がって来るのは当たり前なんです。

 相対的な優劣だけが問題であるなら、全員が「勉強ができない」という状態のときこそ、わずかな学習努力で大きなアドバンテージが得られるからです。同学齢集団全体の学力が低下することが、相対的な優劣を競う環境としては、一番楽です。だから、いかにしてみんなが勉強に意欲をなくすようにするかに子どもたちが努力するようになった。今の子どもたちは無意識的にはほぼ全員がそうしていると思います。子どもたち同士の会話を横で聴いていても、おたがいの知的パフォーマンスを向上させるためのやりとりというのはまず聴くことがありません。ほとんどの会話は「そんなことを知っていても、学力向上には何の影響ももたらさない情報」のやりとりだけで構成されている。そういう話題の選択が無意識に行われている。

 

 日本では、この10年間の政治家たちの知的劣化は目を覆わんばかりです。深い教養を感じさせる政治家の言葉というものを僕は久しく耳にしていません。逆に、知性にも教養にもまったく敬意を示さない政治家たちが教育についてうるさく発言している。その結果、日本の高等教育は先進国最下位に向けて転落し続けています。そのことに切実な危機感を持たないと日本という国にはもう先がないと思います。